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わたしたちはなぜフィクションと仲良くなれるのか? 〜(『美男美女映画対談』のための事前アナウンス)〜

※こちらの文章は、脱輪が主催するお金がもらえる文学サークル“お茶代”の参加者であり大の映画好きでもあるふうらい牡丹さんと二人での開催を予定しているトークイベント『美男美女映画対談』の事前アナウンス用に書かれたものです。
もともと音声で読み上げることを念頭に置いていることもあり、たいへん読みやすい内容となっております。
美男美女やルッキズムの問題に触れる前に、「そもそもなぜわたしたちは虚構であるはずの作品やキャラクターに共感できるのか?」という一般的な問題についてわかりやすく解説しております。
どなた様もお気軽にお読み下さいませ(っ´∀`)っ🥤


さて今夜は『美男美女映画対談』ということなんですが、対談に先立って、まず最初にわれわれが拠って立っているところの前提についてお話しさせていただこうと思います。
どのようなスタンスから発言を行っていくかということですね。
少々堅苦しくなりますが、ぜひとも必要な手続きだと思いますので、しばらくの間お付き合い下さい。


結論から申し上げましょう。
われわれは
「現実の表象と虚構の表象は異なるものである」
という立場を共有しています。
表象、などといきなり言われても、その言葉自体に聞き馴染みがないという方もいらっしゃるかもしれません。
これは基本的に英語の“representation”という単語の訳語でして、リ=再び、プレゼンテーション 〜会社の会議などでみなさんが行っているプレゼンですね〜 =提示するという意味合いから、「表象」の他に「再提示」もしくは「再現前」と訳されることもあります。


では、表象とはなにか?
フィクションの方から考えてみましょう。
例えば、あるアニメに登場する“イケメンのキャラクター”、“美男という表象”を思い浮かべてみてください。アニメに登場するイケメンは、現実のイケメンとよく似た価値判断の基準に基づく身体的特徴と心理的傾向を持っているはずですが、同時にその基準からズレていたり過剰に超え出たりしている、オリジナルな特徴も合わせ持っているはずです。
早い話が、現実にそんな完璧な男は存在しない。だからこそイイわけで(笑)
つまりアニメのキャラクターは、現実を素材として現実とは異なる領域の中に再提示された表象、現実のリ・プレゼンテーションなんですね。
もちろんこれはアニメに限った話ではありません。表象とは、マンガや映画、美術や小説に至るまで、あらゆるフィクションと現実との関係を取り持つ交渉人であり、二つの世界の直接的な交わりを防止するクッションのようなものなのです。
例えば、わたしたちが映画において、現実の価値基準に照らした場合にけっして許されぬ犯罪行為をエンターテイメントとして楽しむことができるのは、このクッションのおかげであると言えます。
表象の効果によって初めて、わたしたちは虚構のストーリーと適切な距離を保ちつつ、それと仲良くなることができるわけですね。


さてしかし、ここでわれわれはひとつの問いを発してみたいのです。
それは「わたしたちが普段経験している現実もまた、ひとつのフィクションなりストーリーではないのか?」という問いです。
考えてみれば、わたしたちが現実そのもの 〜仮に“一次的な現実”と呼ぶことにしますが〜 を、そのままの形でじかに経験することは不可能です。なぜなら、他の動物と違って人間は、おのおのの主観に基づいて一次的な現実を作り変え、自身が経験した出来事をストーリー化して語り直すことでしか健康な生を営んでいくことができない、まことに傷つきやすい生き物であるからです。
一次的な現実は常に残酷かつ理不尽で、互いに関連性を持たない無意味なものです。わたしたちはその意味のなさに耐え抜いていくことができません。
例えば 〜できれば避けたいような出来事ですが〜 、道を歩いていたらいきなり見知らぬ人に殴られた、という例を考えてみましょう。
この時、一次的な現実は“ただ意味もなく殴られた”という事実そのものの中にあるわけですが、それを「まあそーゆーこともあるよなー、あるある!」とそのままの形で納得して受け入れられる人はほとんどいないでしょう。
おそらく多くの人が「きっとあの人は直前に嫌なことがあったせいでイライラしていて、それでたまたま通りがかった自分に仕方なくそのイライラをぶつけてしまったのだろう」などと考え、一次的な現実をひとつのわかりやすいストーリーの中に組み込むことによって、どうにか自分を納得させようとするのではないでしょうか?
これは極端な例ですが、他に身近な例として、例えば、ごく親しい相手との会話の中ですら、過去の出来事に対する認識のズレや食い違いが起こりうることは誰しもご経験のあるところかと思います。
その原因は、なにも人間の記憶が不正確であるせいばかりではありません。そうではなく、そもそもわれわれが生きている現実があらかじめひとつのストーリーとして把握されており、そのストーリーの内容が個々人によって異なるからなのです。
ここから、現実もまた、現実という素材=一次的現実を使って作られたひとつの物語の再提示、表象であると言うことができます。わたしたちは自分でも気づかぬうちに現実を二次創作しているわけですね。


重要なのはまさにこの点です。
というのは、「ありのままの現実をじかに経験することができない」という人間の特性は、一見絶望的なハンデであるようにも思えるのですが、実はその不自由さこそがフィクション作品を楽しむための最初の条件になっているからです。
つまり、人間が日頃からストーリー化された現実=現実の表象によって構成された世界を生きているからこそ、わたしたちは、フィクション化された現実=虚構の表象のあり方に親しみを感じ、わたしとよく似た人物の物語から、わたしとはかけ離れたものたちが活躍する今・ここではない世界の物語までを、あたかも自分のことのように楽しむことができるというわけなのです。


ここまでを整理してみましょう。
「フィクション作品における虚構の世界は、一次的現実の表象によって成り立っている」
「同時に、われわれが体験している現実もまた一次的現実の表象であり、ひとつのストーリーである」
「他の動物と違い、人間が普段から表象の世界を生きている生き物であるからこそ、現実と虚構の領域に交通が生まれ、それぞれが互いに影響し合うことが可能になる」
「これにより、わたしたちはフィクション作品における出来事を現実の出来事と同じように体験し、同じレベルで感動を味わうことができる」
よろしいでしょうか?


さて、わたしたちが見ている現実もまたひとつのストーリーなりフィクションであるとすれば、一般に使われている“リアル”なり“リアリティ”という言葉を再定義する必要が出てきそうです。
“現実=リアル”という大雑把な認識に修正が加えられなければならないわけですね。
そこでわれわれは今後、リアルとリアリティという言葉を仮に次のように定義することとします。
即ち、
“リアル”とは現実と虚構、それぞれのストーリーが素材として使っている“一次的現実”のことである 〜いわば共通の元ネタですね〜 。
“リアリティ”とは、リアルを味わおうとする者がその素材を加工し、さまざまなやり方で調理した“二次的現実”のことである 〜そもそもわたしたちが見ている現実そのものが二次創作であり、おいしく調理された一品であるわけですから〜 。
そして、わたしたちがなにかしらの光景や場面と出会った時に「リアリティを感じる」=「ぐっと来る」体験は、基本的に二次的現実の領域で発生しているために、現実の出来事においてもフィクションの出来事においても同じ強度で起こりうる。
例えば、そのシチュエーションが現実とよく似ている、なんとなくリアルに近いっぽいからリアリティを感じる、という単純なものではけっしてないということですね。


リアルとリアリティの間に表象というクッションがうまい具合に挟まっているからこそ、わたしたちは安心してフィクションの世界に遊び、そのストーリーを自由に楽しむことができる。
しかし同時に、それが現実の人や物を素材として使っている性質上、いろいろと倫理的な問題も出てきてしまう。
ここのところの兼ね合いが非常に難しいわけですが、ひとまずは、虚構の表象は現実のそれとは異なる独自の価値を有している、という点を確認しておきましょう。

ここから、さらに次のようなことが言えそうです。
リアリティには“現実内リアリティ”と“虚構内リアリティ”、異なる二種類のリアリティが存在する。
現実内リアリティと虚構内リアリティは互いに影響を及ぼし合いつつ、われわれの心的現実、心の中の複雑な世界を形作っている。
さらに言えば、もともと双方のリアリティの共通の元ネタであったリアルのあり方もまた不変ではなく、それを物語として語り直すわたしたちの活動からフィードバックを受け取りつつ、現実と虚構、それぞれの領域において常に変化し続けているものなのではないでしょうか?
実際、フィクションの方が逆に現実に影響を与えたり、リアリティがリアルを新たに定義し直したりするような事態は、ごく当たり前に起きているわけですから。
これはひとつの仮説に過ぎませんが、リアリティの性質と同じように、リアルにも“現実内リアル”と“虚構内リアル”、異なる二種類のリアルが存在すると考える方が、むしろ一般的な感覚としてもしっくりくるような気がいたします。


以上の内容を今夜のテーマである『美男美女映画』に引きつけてお話しさせてください。
そもそもの大前提として、複雑で多様な人間を、“男女”という乱暴極まりない二分法によって、“美男美女”という旧弊で差別的な価値観に従って分類することは、倫理的に擁護できるふるまいではありません。
とはいえ、われわれは基本的に映画というフィクションを対象として話を進めていくわけで、そうしたふるまいのどこがどう問題なのかを明らかにするためには、現実と虚構、リアルとリアリティの領域を切り分けた上で、慎重に議論を進めていく必要があるのではないでしょうか?
例えば、いわゆるルッキズムの問題は、まず第一には、われわれの用語で言うところの“現実内リアル”と“現実内リアリティ”、二つの領域に関わっていると思われますが、それをただちに“虚構内リアル”と“虚構内リアリティ”の範囲にまで拡大適用してしまっていいものか?ひょっとすると、それはかなり危険なふるまいなのではないでしょうか?
とはいえ、こうした疑問に対してわれわれは今のところイエスともノーとも言いませんし、また、言うべきでもないでしょう。理由は単純で、「わからない」からです。
もしかすると、これを聞いていらっしゃる方の中には「そんなことはわかりきっている!現実だろうと虚構だろうとダメなものはダメなんだ!」と主張される方もいらっしゃるかもしれません。しかし、われわれはぜひとも「わからない」というゼロの地点から語りを起こしてみたいのです。
というわけで、今夜は『美男美女映画』という架空のジャンルを設定することによって、特に虚構内リアルと虚構内リアリティの領域に限って、わからなさの周囲を散歩しつつ、それなりに真剣な馬鹿話に興じてみようと思います。
もちろんこう言ったところで、フィクション作品の表象があくまでも現実内リアルを元ネタにしている以上、われわれの責任が帳消しになるものではありません。
この点をくれぐれもお断りした上で、基本的には「現実の表象と虚構の表象は異なるものである」という最初に申し上げた前提に沿って発言を行っていきたいと考えております。
願わくば、対談を通じて、“現実内リアル”、“現実内リアリティ”、“虚構内リアル”、“虚構内リアリティ”、という4つの概念がそれぞれどのように異なるのかが明らかにされていくことを祈りつつ 〜特に“虚構内リアル”は、明快に定義づけることが最も難しく、それだけに最も興味深い概念でしょう〜 。

以上、われわれの発言スタンスについての事前アナウンスでした。
ここから先は、映画を巡る真剣な馬鹿話、無防備で愉快な旅にご同行ください。
どちら様もお乗り間違えのないようーー


※こちらの記事もご参照下さい。


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