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パッとは思いつかないが…

誰かの役に立てたこと。

パッとは思いつかない。

道に迷っている人に道を教えてあげるだとか、重い荷物を持っているお年寄りの荷物を持ってあげるだとか、誰かの役に立てたことと言われて思い浮かぶのはそんなことばかりなのだが、そういったことをここ最近した記憶がない。

まぁそもそも誰かの役に立てたことというのはそんな狭い意味ではないのだろうとは思うが。

強いて上げるとすれば…になるのだが、ないことはないのでそれを書いていこうと思う。


唐突だが私は過去2回、死にかけた時がある。

救急の医療室に運ばれ処置を受けて、何とかというか運よく生を拾ったのだ。

その当時はさして生きる意味など考えていなかった、というよりもそんなもの見出せていなかったので、あまり生きるということに対して前向きではなかったのだが、その際に母親から手紙を貰ったのだ。

そこには私が処置を受けている間の母の気持ちや生きていって欲しいという母の気持ちが込められていた。

その手紙を見て私は涙を流した。

それから私は今連れが居るのだが、その連れからも「あんたが死んだら私も後を追うから。」などと情熱的なのかヤンデレなのかわからないことを言われているもので、やはり死ぬわけにはいかないのだ。

そうして私はなんとかかんとか今こうして生きているのである。

つまり何が言いたいのかというと、今の私は生きているだけで誰かの支え、或いは糧になっているということだ。

少なくとも両親はこうして生きていることをおそらくだが喜んでくれているだろうし、連れにしても私がこうして一緒に生きていることを糧にしてくれているだろう。

そうして強いてあげるとすれば、生きていることによって私は両親と連れの役に立っていいるんじゃなかろうかと思うのである。


役に立つ。それは人によっては、目に見える形で誰かの役に立つことをイメージすることもあるだろうが、すべてがそうではないと思う。

ただこうして生きているだけでも、誰かの役に立つ場合もある。

もし今、私は誰の役にも立てていないと考えている人がいるのであれば、私のような場合もあり、生きていることが誰かの役に立っていることもあるかもしれないことを、頭の片隅に入れておいていただければ幸甚だ。

まぁそもそも、生きているだけで奇跡的なのだが、それはまた別のお話である。

#誰かの役に立てたこと

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