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静けさ包む

雨が降っていた。
雨はしとしとと降り、今は雨粒を体では感じられない程度だ。
その雨はこのじんまりとした古い寺も濡らしていた。
小川にかかる石造りの小さな橋を覆う苔も雨に濡れ、生気を帯び、寺を覆う緑もその緑を深めている。
喧噪から遠く離れたこの寺は、静かに緑に包まれているようだった。

その寺には人はほとんどいなかったが、一人の男が腰掛に座っていた。
腰掛は濡れていたようだったが、男はそれを意に介していないようだった。
男は一見中空を眺めているようだったが、その実男はこの寺全体を眺めていた。

その男はまるで、雨に濡れたこの寺の静けさと同化しているかのような心持だった。

男は何かに悩んでここに来たのだろうか。男にはすぐに思いつく大きな悩みなどなかった。
男は人生に絶望し、この寺に辿り着いたのだろうか。男の人生は順風満帆とまではいかなくとも、確かに前に進んでいた。

男は今に不満などなかったのだ。
ただ男の足はふと、まるで吸い寄せられるようにこの寺に向かっていた。
男はこの寺に辿り着き、ただ一人、ここで座っているのだ。

男はどちらかというと社交的な性格をしていて、人と談笑をするのが大好きだった。
今のように一人でこの寺で座っていることなど、彼の家族や友人達は想像も出来ないだろう。しかし男は今、人と話たくてたまらないわけでもなく、寂しさに打ちのめされているわけでもなかった。

ただ男はこの空間を前にして、空になっていたのだ。

男の中には色とりどりで多種多様な色々なものが詰まっていた。
明日のこと、過去のこと、今のこと。または素晴らしい思い出ややりたいことや嫌なこと。それらが渾然一体となって、男の心に渦を巻き、満ち満ちていた。

この寺の静けさはそれらを鎮めるかのように男を空にした。

男は何かに気づいたように立ち上がるとその場を立ち去った。
まるで初めからそこに誰もいなかったかのように、その寺は静寂に包まれていた。

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