「エロイーズ 本当のワタシを探して」読書感想メモ
エロイーズ 本当のワタシを探して(ペネロープ・バジュー 著)、 読みました
ナカリさんに譲っていただいたコミック本。
題名の通り、エロイーズという女性が消えてしまった"自分"を探す物語。
エロイーズはあるときベンチの上で目を覚ます。するとそれまでの自分のことを思い出せなくなっていたのだった……という少し奇妙な導入だ。
フランスで大ヒットした「女性のためのフレンチコミック」とのこと。
表紙から滲み出る、街並みや登場人物の飾らないのにオシャレ感。
細い濃い色の主線で絵を描くのって画面密度的に難しいと思うのですが、それも難なくクリアしナチュラルで馴染みやすい絵柄に。
物語として、一度読み終わった後結末をどう捉えていいのか悩んだ作品。もちろん2回目読了後も悩んだ。
通して4回ほど読んで考えたことをメモとして遺しておく。
しかしまとまらない……仕方ない…書きます…
📖
エロイーズの記憶喪失について、捉え方の変遷
最初に読んだとき、ああこれは誰にでもある(とされる)自我の目覚めを描いた物語だと感じた。
エロイーズの記憶喪失は「それまでと違う自分になる」ドラマチックな演出だと。
確かにエロイーズは記憶を失った後、生き生きと自我をもって動いている。それに自我を持った新しい"自分"が生まれた代償としてそれ以前の自分の記憶を失う、という表現は納得できる。
ただ自我の目覚めはあまり意志と関係なくハッと来るもの(らしい)から、「自分探し」作品として期待していた者としてふーんという印象。
それは丁度自我などこの辺のことを考えていたこともあり……自分、見つけたいよな。
それから2回目、巻末の講評まで読んで捉え方が変わった。
エロイーズはそれまでの"自分"を意志を持って「自ら手放し」、「案外うまくやった(結果として生き生きと生きている)」のではないかと思うように。
外的要因で失ったのではなく、主体的に手放した。
それは例えヤケとかどうしようもない思いが何割かあったとしても、エロイーズは大変な勇気で決断したことだろう。
("自分"を全て手放すって人間に元来可能なのか、という話はさておき)
ここではて、と思ったことを以下に続ける。
"自分"を手放すこと ≒ 本当の自分探しなのか?
どうなんだろう。結果として私の中では答えは出なかった。
エロイーズは確かに"自分"を全て手放して、自分らしく生きるようになった。
けど、それってずっともがいていた"自分"を切り離してしまうことなのでは? それは少し寂しい。
もがくことで"自分"を見つけるに至らなくても、私がもがいた事実やそのときの感情は持ったまま進みたい。
私は"私"を見捨てたくない。
少しずつ手放してみたらいいのかな。そしてまた拾ったり、見つけたりすれば。
人は長い年月で経験を積み重ねて成熟する。
けれど積み重ねた"自分"を無理に背負いすぎて、やりたい生き方にストップをかけることは違うのだろう。
可愛くて格好良いひと、エロイーズ
しばしば繰り広げられるエロイーズのコミカルな妄想は、愛らしくて可愛い。どれも冷静になると「いやありえないでしょ」という少し面白い妄想ばかりなんだけど、わかる。妄想するよね…
そしてそんな可愛さとは裏腹にエロイーズの行動力がすごい、かっこいい。
エロイーズは自分の記憶を取り戻すため、様々な行動を起こす。
片っ端から持ち物を部屋中に並べる(カバンの中身から食器まで全部…!絵としてもすごく好き)、壁に手がかりを書きだし、書類や写真を時間軸・関係性をもとに貼り付けるetc…
やり切って「ふーっ」と一息、そして目をギロリとさせて、「さあ次は⁉︎」と言いたげな好戦的な表情。
とても印象に残っていて、好きだ。
もうこの時点でエロイーズの"自分"とやらは持ち合わせているとわかる。
すごいなあ。
🌆
街並みって意外と好きだ。
「エロイーズ」に出てきたようなフランスの街並みもやっぱり憧れるし、東京のギラギラした街並みも見惚れていることがあるし、駅のホームから見えるよくわからない雑居ビル群も親しみが湧くようになった。
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