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おばあちゃんの思い出

36年の人生で、おばあちゃんと会話した時間は、通算1時間も無いかもしれない。思い出はほぼゼロだ。
じゃあこんなタイトル付けるなよと記事を開いてくれた人は思うかもしれない。しかし、私も皆のように、おばあちゃんとの思い出を記してみたいのだ。無いなりに。


母方のおばあちゃんは、娘が5人いて、一番下が私の母だ。本当は3番目に息子がいたそうだが、2歳で亡くなったらしい。息子が生きてたらうちの母は生まれていなかったのではと、考えてしまう。

おばあちゃんは当時の私の家から車で小一時間くらいのところに、おじいちゃんと一番上の娘家族と住んでいた。農家や自営業をやっていて、牛小屋もあった。
若い頃は戦後で大変だったらしいが、私が物心着いた頃は、田舎の大きな家に四世代でのんびり暮らしていた。

私は母にとって初めての子だが、おばあちゃんにとっては11番目くらいの孫だ。
母の姉達は全員どんどん結婚して、皆2・3人ずつ子供を産んだ。私が産まれたとき、初孫にあたる従兄弟は25歳くらいだったはず。

3年後くらいにその従兄弟に子供が産まれる。おばあちゃんにとっては初ひ孫だ。11番目の孫より初ひ孫の方がホットトピックだったであろう。

なぜおばあちゃんとほぼ話をしたことが無かったか。
端的に言うと、人数が多すぎて、おばあちゃんとゆっくり話す時間が特に無かったのだ。

夏休みなどはおばあちゃんの家へ親戚で集まることが恒例だったが、大体歳の近い従姉妹達と話していた。
話すような従姉妹がいないときは、和室の角でジッと本を読んでいた。
親戚をかき分けてわざわざおばあちゃんに何か話しかけにいくほど、精神が大人ではなかったし、社交的な子供ではなかった。

小6くらいのとき、たまにはおばあちゃんと話してみようと思い、「お母さんて、小さいときどんな風でしたか?」と聞いたことがある。
おばあちゃんは「いい子だったよ」と答えてくれた。
しかし当時の私はその答えを通りいっぺんなものに感じ、また、おばあちゃんと打ち解けてないのに、何かおもしろい答えを期待してしまったな……と、自分の浅はかさに反省もした。

大きくなるにつれ、人と比べて従兄弟の数が多いことに気付き、「こんなに孫がいるのだから、わざわざ私と話すほどでも無いだろう」とも考えるようになった。元来の前に出る気質ではないところと、卑屈なところがよく出ている。

帰り際になると、おばあちゃんはいつもお小遣いをくれた。金額としては大体5,000円〜10,000円で、その時だけはニコニコありがとうと受け取った。
別に可愛い孫ではなかっただろうに、確か20歳くらいまでくれ続けたと思う。孫が何人もいるのに用意してくれていたのだった。
小学生の頃は「これでアイスでも買って下さい」と言いながらだったが、中学生になると「これでラーメンでも食べて下さい」に変わった。
長年の育児経験から、10代の食欲をよく分かっていて、その挨拶に変えてくれたのかもしれない。
ちなみにお小遣いはほぼ母親に没収されたので、自由に使えたことは無い。

約10年前、最終的に孫が13人、曾孫が8人の状態でおばあちゃんは亡くなった。たぶん85歳くらいだった。

数年前、菅田将暉がバラエティで思い出の味を食べるというコーナーに出ていて、自身のおばあちゃんの煮物を食べていた。小さい頃よく作ってもらったとのことだった。
具材はじゃがいもと何かのお肉で、飾らない見かけのものだった。
菅田将暉はそれをとても嬉しそうに食べていた。おばあちゃんの味っていいですね!とコーナーは締められた。
それを見た私は、「おばあちゃんの味、知らないな〜」と気が付いた。
おばあちゃんの家には何度も行ったが、出てきた料理は、一番上のおばさんやお嫁さんが中心となり作ってくれていた記憶がある。おばあちゃんも作ったかもしれないが、どれだったのかよく分からない。

味で思い浮かべるのは、父方の祖母である。

父方の祖母は、私が2歳前に肺がんで亡くなった。なので残念だが記憶が無い。享年59歳。
初孫の私を可愛がってくれたらしく、牛肉を一度自分の口の中で噛んで柔らかくしてから、食べさせてくれていたらしい。
今聞くとママ垢で大炎上しそうだが、母は普通のことと感じていたそうで、これが昭和後期だったようだ。
祖母が一度噛んだ牛肉は、どんな味がしたのだろう。覚えていなくて良かったような気もする。

遺影を見ると、父方の祖母は、「おばあちゃん」ではなくて「祖母」という感じがする。
還暦前で少し若いのと、ちょっと斜めを向いてすましているところが、おばあちゃんという親しみやすい呼び方よりも、祖母というコンパクトな呼び方の方が似合う気がする。
お洒落な人で、田舎の地方都市に住みながらも、宝石やちょっと良いブラウスをコツコツ集めたりしていたらしい。
彼女が買ったパールのネックレスは、今も私が使っている。
ブラウスは大学生のときに着ていた。父の前で着てみると、「なんかそれ見覚えがあるな。」と言っていた。その後太って入らなくなってしまった。

ちなみに祖父は父が中学生の頃に病気で亡くなっている。
父は一人息子で、30歳そこそこで両親がいなくなってしまって、さみしかったろうなと思う。
幼い頃の父はやたらとピリピリしていた印象があるのだが、親が早く亡くなってしまったストレスもあったかもしれない。
まぁ父の話は置いておいて。

祖父は病弱だったこともあり、祖母は父をほぼ一人で育てたそうだ。お嬢さん育ちでマイペースでクールだったらしい。
父が大学のため上京していた四年間、一度も東京に来なかったそうだ。(入学式なども一切来なかったらしい。)
交通費が負担ということもあったのかもしれないが、私の父もマイペースでそこそこクールなため、(私が何か勉強していると、「将来はAIが全部やってくれるから貴方達がやる仕事は無いよ」とシレッと言い放ったりする。)、なんとなく裏付けを感じる。
ちなみに病弱な祖父と結婚したのは、顔が良かったからだったそうだ。面食いでもあるのかよ。

マイペースな祖母だったが、「孫がこんなに可愛いと思ってなかった。」と生前はよく言っていたらしい。
ただ私の一重まぶたを気にしていて、「この子が高校を出たら、二重にしてあげて」と死ぬ前に言ったそうだ。
十数年後、高校を卒業した私に「あんた整形する?」と、母は律儀に聞いてきたが、娘に整形を勧めるな!!とキレた。
しかしその後34歳の時に、「やっぱり二重になってみたい」と美容クリニックのカウンセリングに行くことにした。
それを母に言ったら「おばあちゃんの遺言だから」と5万円くれた。
お金を持って病院へ向かい、カウンセリングを受けたところ「瞼が厚すぎるので埋没ではなく切開はどうか」と提案された。価格は17万円だった。
最初から切開は怖すぎると辞退し、母にお金を返そうとしたが、せっかくなのであげるよと言われた。

母方のおばあちゃんにもらったお小遣いはすべて巻き上げられたが、大人になってからこのような形で戻ってくるとは想像していなかった。祖母もこの子を将来二重に……と言った時は、ここまで見通していなかっただろう。

学生時代、友達やクラスメイトの話を聞いていると「お母さんがお父さんのおばあちゃんに気を遣って大変だ」というニュアンスの話を何度か耳にした。
私の家はお父さんのおばあちゃん死んでるしその辺楽だな!ラッキー!!と、当時は呑気に考えていた。
しかし、母は長らくワンオペ専業主婦で私と妹を育てかなり大変だったようなので、祖母が生きてて同居していたら楽だったんじゃないかとたまに考える。私も祖母が生きていたら沢山話しかけてみたかった。
考えるだけなら自由で楽しい。

私の子供は両親にとって初孫で、たった一人の孫だ。
母は私の誕生日はかなりの確率で忘れるが、孫の誕生日には必ずLINEを送ってくる。ある年は「ばあばは、●●ちゃんが産まれてからずっと幸せ❤❤❤❤❤」と送ってきてドン引きした。
父は孫のためにせっせと餃子を作ったり良い肉を買ってきて食べさせている。先日は、遊びに来た時迫力満点でYouTubeを見せるために自分の部屋にプロジェクターを付けていたので、ドン引きした。私が中学生のとき勉強しないのに怒って2階の窓から雑誌とか漫画とかブン投げたくせに。
私も祖父母にこんなに可愛がられてみたかったが、そういう人生ではなかったので仕方ない。

私のこの先の懸念点としては、身近に高齢者がいなかったので、両親が高齢になったときの対応が未知ということだ。
近所のドラッグストアに行くと、50代~60代くらいの人が介護用のオムツを買っている姿をよく見かけるのだが、自分の親御さんのための買い物なのかなと思うと、正直抵抗を感じる自分がいた。

父にその不安を伝えると、「俺も分からない」「自分が年寄りにならないと分からない」と答えた。
確かに、この人も知らないんだよなと思った。
分からないことは今考えすぎても仕方が無い。なるべく慌てず、お互い疲れず生きていけることを期待する。

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