無音
僕らに、言葉は必要無かった。
言葉を交わさずとも意思疎通は可能だった。
お互い何を考えているかが、わかっていた。
君が前を歩けば僕はそれについて行き、僕が立ち止まれば君は振り向いて立ち止まってくれた。
君が怒っているときには僕は頭をすぐに下げ、僕が悲しんでいる時には、君は頭を撫でてくれた。
笑うタイミングだって、一緒だった。
普段通りの日々、言葉が要らない僕らの距離。
その距離が嫌に居心地が良くて、きっとこの日々は当たり前にいつまでも続いていくんだと、そう思っていた。
ある日。
デートに出かけた。
散歩のような、日課のようなデートだった。
買い物をして、目的地も決めずに街を歩いた。
それだけで、楽しかった。
前を歩く君を眺めながら、幸せだとそう思っていた。
帰り道。
君は急に走り出し、道端で日向ぼっこをしていた猫に触れた。
僕はそれを見て、少し笑いながらゆっくりと、君の元へ歩いていく。
いつも通りだ。
…不意に視界の端から人が駆け抜けた。
同時に、眩しさを覚える。
走り抜けた人物が手に持つそれに、太陽光が反射したのだ、と気づくのに数秒とかからなかった。
目の前には、彼女しかいない。
慌てて、大きな声で彼女を呼ぶ。
届け…届け。届いてくれ。
彼女は、振り返らなかった。
僕らにとって、言葉は必要無かった、のでは無い。
…必要とすることこそが出来なかったのだ。
目の前で流れる血。倒れる君。
彼女は、朦朧とした意識の中で、手を僕に向けた。
君がよく使う。手話だった。
「愛してる」
僕らにとっての言葉は、そのまま地面に落ちた。
ひなた
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