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甲羅の中の宙

 目が覚めたら僕は、星空のど真ん中にいた。
 紺碧の暗幕の上に鏤められた色とりどりの光が瞬いている。僕は呆気に取られたまま、ものも言えなかった。
 さっきまでベッドの上でスマホを眺め、明日の一時間目の授業で小テストが強行されるという同級生からのLINEに目を丸くしていたのだから当然だ。僕は身を起こして(と言っても、どちらが上なのか定かではないけれど)、辺りを観察することにした。
 360度、どこを見渡しても虚空が広がっている。いつか、教育番組の宇宙特集で見たまんまの光景が目の前にあった。初め、雑然と鏤められているだけだと思った星々は、あるところではぎゅっと寄り添って、あるところでは疎らになっている。星雲とか銀河と呼ばれるものなのだろうが、それらにどのような名があるのか、僕は知らなかった。
 星と暗黒しかないので、観察も数十秒で終わってしまう。
 どうやら僕は、宇宙のど真ん中に放り出されたらしい。どういう経緯かはわからないけれど。
 ――息はできるんだな……。
 果てしない虚空の果てにいるにも拘わらず、不思議と僕の頭は冷静だった。大きく深呼吸をし、「さて、どうしたものか」と呑気に構えているのだった。
「佐久間君じゃない」
 聞き覚えのある女の声に振り返る。
「進藤……」
 肩のところで切り揃えられたショートヘアにも見覚えがあった。隣の席の、進藤純であった。切れ長の目に、それほど高くない細身の体は見るからに運動の得意そうである。事実、足が速く、跳躍力もあった。何故それを僕が知っているかと言うと、学期初めのスポーツテストのときに、こっそりと女子の方を覗き見ていたから。
 特段、進藤のことが気になっているわけではなかった。思春期男子特有の、アレだ。何となく女子の方が気になってしまうという、アレ。
 そのことを思い出して、僕は進藤から顔を逸らした。きっと彼女から見れば、真横に広がる雲のような星々の塊に僕が見惚れているように見えただろう。
 どうか、そう見えていてほしい。
「何で、お前、こんなところに」
「佐久間君こそ、どうしてここに?」
「さあ……? てか、ここがどこか知ってんの?」
「当たり前でしょう? 佐久間君は知らないの?」
「知るかよ。知るわけねえだろ? こんな、宇宙みたいな」
「宇宙だよ、ここ」
「嘘つけよ。宇宙なら、息ができるわけねえだろ?」
「できるよ。何言ってるの? 宇宙だよ、ここ」
 逆に僕の方が訝しげな視線を投げられる始末であった。その視線から逃げるようにして、僕はまた星々に目を向けた。
 それにしても不思議な空間だった。僕らの発する声以外に音はなく、星々の弱々しい光しかないはずなのに二人の姿は、はっきりと見えた。
 未だ、ここがどことも知れない宇宙であること以外、呑み込めずにいると、突然ライオンか何かが唸るような音が鳴り響いた。その音は宇宙全体に響き渡り、僕の頬の産毛まで震わせた。
 驚いて辺りを見渡した僕の目に、ゆっくりと動く、細長い星の群れが見えた。青白い星々を包んだ、筒のようなものが右から左へ動いている。
「な、な、な……何だァ?」
 それしか言葉が出てこない。その透明な筒状の物体は、生きているように左右にうねっていた。不気味な動きを数回繰り返すと、今度は逆方向に動き始めた。
 さっきと違って、筒の尖端が切れ目のような穴に吸い込まれていく。
「外で何かあったのかしら?」
 進藤が怪訝に呟いた。
「外って……ここが外だろう?」
 外は外でも、地球の外である。しかし、進藤は小さく溜息を吐いて、首を横に振る。
「ここは中でしょ。亀の甲羅の中。さっきのあれは、亀の首でしょう?」
「はっ……?」
「外の世界で何か、彼を驚かすことがあって、首を引っ込めたのよ。亀が甲羅の中に引っ込むの、見たことないの?」
 見たことなくても、誰だってそんなことは知っている。僕が驚かせたのは、ここが亀の甲羅の中で、さっき見た不気味な物体が亀の首だという事実であった。
 さっきの物体を目にした後では、彼女の言葉を鼻で笑うこともできなかった。
 確かに、暗闇の中に目や鼻の先らしい影が見えたのだ。
「そっか。佐久間君は初めてなのか」
「お前は違うのか?」
「まあ、十回はここに来てるかな」
「多いな」
「まあね。私って、情緒不安定だから」
「そうなのか……?」
 教室での彼女を思い出す。大人しくて、他の女子と話している姿は記憶にない。机に座って、何をするでもなくぼうっとしている姿が脳裏に浮かぶ。
「そう、なのか?」
 二回目の呟きは本人には届かなかったらしい。進藤は虚空を見上げていた。
 そんな彼女の姿は情緒不安定とは程遠い。
「死にたいな、って感情が強くなると、ここに連れてこられるの」
「連れてこられるって、誰にだよ」
「わからない。でも、死にたいって強く願った日は、だいたいここにいるの。しばらくここにいて、星の光とか、亀が呼吸するのとか、鼓動の音とか聞いていると、心が落ち着いてくる。それで私はまた、明日を生きるの」
「へえ……」
 死にたい、か。
 隣の席に座っていても、心の声は聞こえない。そんなこと考えて生きていたなんて、わからなかった。当然だけど。
 正直、死にたい奴の気持ちなんか理解できない。死にたいと思ったことなんてこれまで一度もなかった。
 進藤は死にたいと思うとここに連れてこられるのだと言った。それでは僕はどうしてここに来たのだろう。
 心当たりを記憶の中に探していると、突然進藤が話し掛けてきた。
「あのさ、佐久間君」
「何だよ」
「明日、学校に来たら……きっと私が先に座ってると思うんだけど……おはようって、私に言ってくれないかな?」
「は?」
「おはようって、私に言ってほしい。そしたら、もうここに来なくて済む気がするの」
「……まあ、いいけどよ」
 渋々了承すると、進藤が初めて笑った。
 虚空に煌めく星々のような、吹けば消えてしまいそうな笑顔だったが、どの星よりも綺麗だった。
「約束ね」
 そう言って、彼女は右手の小指を立てて、僕に差し出してきた。
「あ、ああ」
 戸惑いながらも指を絡めると、じんわりとした熱が伝わってきた。
 ありがとう。
 そう言い残して、進藤は細かな光になって消えてしまった。あっと声を上げた瞬間に。僕は自分の部屋の天井に向かって手を伸ばしていた。
 分厚いカーテンの隙間からは朝の白い光が差し込んできて、僕の網膜を鋭く突いてきた。
 僕はしばらく動けず、伸ばした掌の、小指を見つめていた。まだ、あの柔らかな熱が残っているのを確かめながら。

つれづれなるままに物語を綴っております。何か心に留まるものがありましたら、ご支援くださいまし。