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アダルトチルドレンの話。

初めてこの話をちゃんとする気がするなあ。

私はアダルトチルドレンです。常に人に注目してもらわないと、肯定し続けられていないと不安になる。自分という存在がなくなるような気がする。いじめられてしまうのではという異常な不安がある。ちょっとしたことですぐ病む。常に自分の中にいる自己中心的な幼稚園児の機嫌をとってなくちゃいけない。

これが一番の弊害を産むのは数人のグループで作業する時。目立ちたがりで、さらに多動と注意欠陥の傾向もあるのでひたすら落ち着きもなく喋って喋って作業は忘れるという最悪な状態に陥る。今日もさっきまでグループワークで、ちょっと申し訳ないことをしてきた。

アダルトチルドレンは、家族や、幼少期思春期に育ってきた環境に問題があることが原因とされている。

思えば、私は両親にほめられたことが覚えている限りほとんどない。陸上部の都合宿選抜に入った時も、大学に合格した時も、彼らはいつも成果ではなくて改善点や粗にばかり目を向けていた。私は彼らが私をどう褒めるのか知らない。友達を褒めることはあっても、身内をどう褒めるのか知らない。

でも、それは調子に乗りやすい私に対する彼らなりの配慮であり方針だったのだろうと思う。もし私が小さい頃の自分自身を娘として育てていたとしても同じことをする気がする。そう思うと、どうしても責めることはできない。

待てよ、これは自分の親を否定したくないためのこじつけかもしれない。世界に2人しかいない親だから、なんとか理由をつけて、いい親の元で育てられたのだと、親を肯定したいのかもしれない。そもそもそこから私は病的なのかもしれない。何が正しいのかわからない。

私よりもっとしんどい環境にいる子をたくさん知っているから自分が普通ではないなんて認めたくないし、家庭環境が悪かったとも言いたくないけど、でも、私自身がそれを証明してしまっているんだから悔しくてたまらない。


一体私はなんでこうなってしまったのか?


それはたぶん、自分で自分を肯定できなかったからだ。

親や環境を責めるのも一つの解だし、科学的原因はそこにある。でも、それは根本的解決には繋がらない。いくら親を憎んだって、たとえ親が亡くなったって、問題は解決しない。結局背負っているのは自分なんだから、救済を外に求めるのはそれこそ逃げだ。

誰に肯定されなくても、自分で自分を肯定すれば済む話である。それができないアダルトチルドレンは自己の肯定を外に求めてしまってトラブルを生む。全ては自己を肯定できればきっとなんとかなるのだ。きっと。

どうしたらこの失われた幼少期を取り戻せるのか、大学生になった今でもわかりません。だから、普通の人よりもたくさん失敗していくんでしょう、これから。たくさん迷惑をかけていくんだと思います。

どうか、どうか、愛想をつかさないでください。ダメなことはダメと、いいことはいいと、言ってください。周囲を愛せるように、自分を愛せるように、私は変わりたいです。頑張ります。

読みたいと思っていた本と撮影用の衣装を買うために大切に使わせていただきます。