自殺衝動と、一緒に生きる。
私は元々感情の浮き沈みが人より激しい。他人がついていけないし、分からないような、目まぐるしさに、自身で圧倒される。
日によっての変動が凄く、病気みたいなところがある。
昨日、彼氏から見捨てられたように感じて、死にたくなった。
たったそれだけで?と思われるかもしれない。でもあくまでそれはきっかけであって、本当は我慢していたことが積み重なっていたのだと思う。
最近、瞑想や朝に散歩をすることで、それら(病気)を治そう治そうと無理しすぎていたこと、仕事を頑張ろうとしすぎていたこと、結婚した先、未来のことを全く考えられる状態じゃないのに、無理やり考えようとしていたこと。それらやその他のこと、全部。
本当はずっと無理をしていたんだろう。爆発するまで気づかなかった。
病気、という私の一部分を忌むことが、私を認めないこと、私が私を排除しようとしていたことだった。そのことに、爆発するまで、気が付かなかった。
かといってそういう時に限って、冷静な考えを持てる訳もなく、恵まれてるくせに何思ってるんだ、病気と思うな、言い訳するな甘えるな、治すための努力くらいできるだろ、と自分を責める。だから余計他人に言えなくなる。全部自分が悪いのだと思い、他人に相談することも思い浮かばず、私は、貝みたいに口を閉ざす。
いざ言おうとしたところで、彼氏に見捨てられたような気がして…というような言い方しか、思いつかなった。本当の気持ちは、別のところにあるのに。いっぱい我慢していたのに、自分が何に我慢していたのかも気づいていなかった。
そんな中、昨日は、死にたいって希死念慮と衝動にかられて行動してしまった。大雨が振る中、増水した川のほとりまでいった。下に降りた。そこから、飛び込もうとした。でも、いざ死を目の前にした時の恐怖は凄い。本当に死ぬという一歩を踏み出す時には、瞬間の勢いや迷わない気持ちがいるんだと思った。
昨日はその勢いを持ったのは、ほんの瞬間だった。でも一瞬迷ってしまった。そこからは滝の下に下りて、水の中に下半身をずっと浸していたものの、手を離せばこの流れに呑まれるという事実が、ただ怖くて、しばらく動けなくて、そのあと、体が動かなくなってきて、通報されるのも嫌で、全身濡れたまま、家に帰った。
なんて情けない。死に損なった、と思った。
同時に、痛みが怖くて潔く死ねないなんて、どうしようもない構ってちゃんなんじゃないか、まだ生きることに執着してるんじゃないか、とも思った。そうやって沢山自分を責めた。
ただ、そんな時にSNSに、いなくなりたいと書いている人がいた。
その人は「希死念慮が凄いから今日だけは構ってくれ」とお願いしていた。
そして、その姿を見て、無様だとか、情けないとか、構ってちゃんだとかは、全く思わなかった。
むしろ、死にたいと思いながらも、頑張って、生きようとしているのだ、と思った。死にたくても生きようとしている姿に、勇気をもらった。
私が私に対して死に損なった、と思ったことは、その人のことを馬鹿にすることだとも思った。
だって、こんなにも必死で生きようとしているのに。
死にたいまま生きることは、なんの執着でもないと思った。そして死にたいと言いながら生きるからといって、生きることに執着している訳ではない。死にたいと言ったり思うことは、ひとつも恥ずかしいことなんかじゃない。
そして、死にたい、と言ったりするのは、かまって欲しいからじゃない。
いや、正確にいうと、構わってもらわないと本当に死んでしまうから、そう言うのだと思う。そういう意味で、死にたいと言う人の言葉を軽視したことは、無い。
だから私は、死にたいので助けてくれ、と言えたその人のことを心から凄いと思った。
死にたいと言った時、一定数、死にたいばっかり言って意地汚いだとか、私の方が辛い境遇だったのに、と言ってくる人がいる。いや言わずとも、押し付けてくる人もいる。
そのせいで、本当に死にたい時に死にたいと言えなくなっている人はどれだけ沢山いるんだろうかと思う。
普段、つらい、と言わない人が笑顔でぽつっと呟いた、つらい、にどれだけの重さがあるのだろう。
心で泣いているのは私だけじゃない。
人の抱える痛みに、大きいも小さいも無い。
置かれた境遇なんて、関係ない。
他の人と比べて恵まれてるから、死にたいなんて贅沢なこと思っちゃいけない、なんてことも、絶対に無い。だけど、確かに客観的に見たら恵まれてるからこそ、辛いと思っちゃいけないと思うのだろう。自分は辛い。死にたい人は、そう感じることすら禁止するようになったのだと思う。
でも、辛いって感じてもいい。辛さは比べられるものじゃない。他人と比べた時に、私はたくさん持っているのに、と思ってしまう、優しい人だからこそ、自分のために嘆けなくて辛いことが、人一倍きっと沢山あるんだ。
死にたいと思うことは、わがままなんかじゃない。死にたいと思うことは、自分の辛い、をたくさんの人や価値観の天秤にかけて無視してきた証拠だと思う。
心が、気付いてくれ、認めてくれと、暴れているんだと思う。
じゃあ死にたい時にできることは何か?
まずは、自分が自分に、感じることを許可することだと思う。自分を、受け入れてあげることだと思う。辛いと思う自分を、辛いんだね、そっか。とありのままに受け止めてあげること。
やまない雨はないなんて、決して言えない。
だから、そんな私でも、それでも生きていこうとすること、死にたいまま明日を迎えること、死にたいまま今日までの日々を生きてきたことが、どれだけ尊いことなんだろうかと思えた。
綺麗事でもなく、自分に思う。
今日までを生きていてくれてありがとう。
生きていてくれて、ありがとう。
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