【記念SS】眠り深(ネムリブカ)【雛杜雪乃短編SS】

数日ほど前から、奇妙な夢を見るようになった。

いつも通りの町並みなのに、どこか違和感を覚える風景。よくよく見れば、僅かに色彩が鮮やかなのだろうか?
 とにかく、それを眼下に見下ろしながら、隣人である雛杜 雪乃(ひなもり ゆきの)と共に紅茶を楽しんでいる夢だ。
 不思議なことに、彼は夢の中で言葉を発しない。
 私は、彼が淹れてくれた紅茶の香りを楽しみ、どこからか買ってきたのであろう茶菓子を口に運ぶ。紅茶と共に口にすれば、ドライフルーツの甘みがしっとりと溶け出し、紅茶の香りにあわせて深い味わいを感じさせる。
 少し高級なものなのだろうか? お茶菓子も、紅茶の種類にあわせて選んでいるように思える。
 意識が溶けるように深くなり、舌だけでなく、脳髄から頭頂まで仄かな幸福感に包まれる。
 しかし、そんな美味しいものを口にいれても、彼は喋らない。普段の様子では、そんなに寡黙な人ではないはずだ。むしろ、話好きと言うくらいで、互いの興が乗れば優に一時間は話し込めるだろう。
 とは言え、このまま穏やかで幸せな今を続けるのも悪くない。あともう一時間、続けしてほしい。
 数日目の今日、ようやくそう思って、彼に承諾を得ようと話しかけようとしたところで、はたと気付く。
 身体が動きづらく、口は開いても音を発しない。周りの空気が全て、粘性の高い液体になったように、手足も、頭すらも動かない。
 声も、口は開いても空気の取り込みがうまくいかず、溺れたように呼吸が辛い。
 慌て、口と喉元に手を当てて必死に呼吸しようとする姿を見て、彼は困ったように眉尻を下げながら、笑顔で私の事を見つめる。

「ーーーーーー? ーーー、ーーーーーー?」

彼は気遣うようになにかを言ってくれているが、私の耳には届かない。ようやく彼が不審そうな顔をしたことで、私の心配は安堵に変わる。
 気が付いてくれた、もしかしたら助かるかもしれない。少なくとも、彼は私を助けるために全力を尽くしてくれるだろう。
 彼の、刃物のような笑顔を見るまではそう思っていた。

「違和感があると思ったら、そういうことだったんですね」

混乱する。彼が何に納得したのかも分からなければ、それで何故そんな笑みを浮かべられるのかも分からない。
 ただ苦しくなる呼吸をよそめに、彼はそのまま言葉を続ける。

「安心してください。彼女は怒っていますが、僕は怒っていませんからね。
 まもなくその苦しみも収まります」

彼がそういうと、先ほどまでの呼吸の苦しさがいくらか楽になる。いまだ言葉は発せず、先ほどまでの紅茶も茶菓子も消え失せていた。
 痺れるような甘さを感じさせる表情の彼は、私の様子を満足そうに見つめる。その顔は、ただの隣人だった頃には見たことの無い笑顔だった。

「明日からはまた、ただの隣人で。仲良く、僕を味わうなら少しずつにしましょうね」

そうして、部屋の隅から世界が溶け落ちる。私は、突き飛ばされたかのように背中から着水する感覚を覚えてーー。

ーーーーー

掛け布団を跳ねあげた。
 心臓は大きな脈動を繰り返し、全身はプールに浸かったように汗まみれだ。そのせいか、全身に感じる汗が氷のように冷たい。脳裏には先ほどまでの夢が強烈にこびりついている。誤認からか、舌には甘さのきつい砂糖菓子のような味を感じる。
 呼吸を整えていたところ、いつもの目覚ましが鳴る。幸い、出発には余裕がある時間だ。
 少しシャワーで汗を流してから、出発することにしよう。

手早く靴を履き、玄関を開ける。隣の玄関を見れば、隣人の彼も同じように外出しようとドアを開けたところだった。
 彼は、いつものように穏やかな笑顔を見せ、いつものように世間話染みた挨拶を始める。

「おはようございます。洗濯物日和のいい天気ですね」

彼を見てなぜか、舌が甘く痺れるのを感じた。

『好奇心が強く攻撃性は低いが、偶発的に人に噛み付いた例がある。食用とされるがシガテラ毒を持つ可能性がある。

ーーWikipedia、ネムリブカの項より一部抜粋ーー』

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