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関係性に完璧を求めない

こんにちは。社会福祉士、精神保健福祉士のHinaです。
今日は人を信じることについて意見してみます。


◇野田洋次郎の言葉

映画「君の名は。」で一躍有名になったRadwimpsのボーカル、野田洋次郎。私は彼の言葉づかいが大好きで、彼のエッセイをバイブルのように読み込んでいます。

・野田洋次郎の書籍はこちら

洋次郎(呼び捨てですみません。)はある歌の中で、こんなことを歌っています。
「どうせいつか嫌われるなら そうなる前に僕の方から嫌った僕だった」
先ほどこの歌詞がふと頭の中に浮かび、なんとなくその言葉について考えてみています。この洋次郎の気持ち、私はとてもよくわかるのです。だいぶ前に、「良かれと思って誰かのためにやっていたことがその人にとって迷惑だったとわかって辛かった」という内容の記事を執筆しました。もし余計な思いやりを持たず、そして余計なことをしなければ、こんなことにはならなかったのではないか?と、自分の行いを悔いたものです。そのような出来事があると、思いやりや信用のような勝手な期待は持たない方が楽だと感じてしまいます。

でも、私は人に対して温かくいたいのです。

◇なつみ先生の言葉(Voicy)

ここで、今度はVoicyでヨガに関する放送をしているなつみ先生の放送を紹介します。

いつの放送か忘れてしまいましたが、なつみ先生は放送の中で以下のことをお話ししていました。
・「裏切られるかもしれない」という不安より、「今この人を信じることができている私は幸せな状態である」という感覚の方が大切
・「何度も裏切られて不安」という事実より、「何度誰かに裏切られても、またこうして信じたいと思える人と巡り逢えている」という事実を見よう

この二つを聞き、裏切られることと信用することは切り離して考えたら良いのだと気付かされました。信用したら必ず裏切られてはいけない、というのは私の勝手な思い込みです。たとえ信じた人から裏切られて大損したとしても、信じたいと思える人に出会えた私自身にポジティブな感覚を抱くこともできます。必ずしも、裏切るような人を信じてしまった自分を悔いる必要はないのです。
裏切られてしまったからといって、その信用の関係性が間違いだったとは限りません。そのような人でも、信じている間自分が幸せを感じていたのなら、それは間違いの時間ではなく、そのような関係性だっただけなのです。

◇関係性の完全体はない

誰かと関係性を築くとき、必ずしも完璧な完全体を目指さなくても良いのだと思います。歪んだ関係であったとしても、時に心を痛めることがあったとしても、自分がその瞬間以外の幸せな時間を大切にしたいのなら、それでも間違いではありません。

嫌われる、裏切られる、期待通りの結果にならなかった関係性はありませんか?
そのような過去に、罪悪感や嫌悪感はありませんか?
そんな関係でも、大丈夫です。自分が築いた関係性に、いつまでも自信を持っていようと思いました。

では、また🌸

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