母からの呪縛がとけた日

母が旅立った。

6月18日(金)。仕事から帰宅したとき母はいつもと違っていた。ベッドに寝ていた母に声をかけても返事はなく、ただ口をパクパクと呼吸をしていた。そばにいた父に聞いたら朝から一度も起きないしこんな感じだと言っていた。父はどうしていいかわからなかったのだと思う。ただ呆然と母の顔を見ていただけだった。

その前の日は少し体調が悪そうだったが話の受け答えはできていた。薬の効きが切れかけているときはいつもそうだったので、最近では気にすることが無くなってしまい「薬が効いてくるまでは辛いと思うけれどなんとか我慢して」とかわしてしまうことが多かった。

しかし、今回はいつもと呼吸が違っていた。救急車を呼ぶ必要があると判断しあわてて119番した。しかし119番をしたのはこれが初めてではなく今回も少し処置してもらえば家に帰ることができるのだろうと楽観的に考えていた。

救急車は5分ほどで到着し父と私が救急車に乗り込んだ。自宅から約3kmほどの総合病院に運ばれることになった。3kmという距離はほんの数分のはずであるが、その数分の中で救急隊が慌ただしく動き始めた。

心肺が停止しております。ここでできるだけの処置をしてもよろしいでしょうか

今回はいつもと違うのだと思った。

長い期間にわたり難病指定されているパーキンソン病を患っており、最近では薬の効きも悪く苦しい時間が増えていたようにみえた。パーキンソン病の薬の影響と老化による脳の動きが悪くなったことが合わさり「泥棒がいる」「誰かがお金を盗む」などの被害妄想がひどくなっていた。そして時々は「私」がお金を盗んだ、「私」が何かを企んでいるに変わることがあった。なぜかその矛先は父に向かうことはなく、ほとんど「私」だった。そんなふうに罵りながらも母は私に依存していた。それが病気や薬が原因だとわかっていてもどうしても許すことができず怒りを向けてしまう。そんな母を疎ましく思っては逃げていた。

そんな中、勤務先の会社ではテレワークの推進を図っていた。それは職場の人数を減らす、またテレワークを行う社員も通勤しないことで感染リスクを減らすためであり、週に1〜2回ほどテレワークを行うことになった。正直自宅でテレワークをしたくなかった。家に私がいることで母が感じている妄想を仕事中とか全く関係なく聞かされる。上司にはそこまでのことは言えなかったが「家庭の事情でテレワークしたくない」ことは伝えた。事情はわかってもらえたが「ウイルス」の件が重要だったことから私だけがテレワークをしないことは難しかった。仕方なく時々は自宅近くのビジネスホテルのデイユースを利用してテレワークすることもあった。本末転倒だとは思いながらもそれでも精神衛生上快適に過ごせるのであればよいと思った。

病院に到着し救急車を降りた後、私と父は救急の待合室に案内された。その後の状況が全くわからないまま待っていた。その間に事務の方だと思うが「氏名」「生年月日」「状況」「普段の生活」「緊急連絡先」を書く用紙を持ってきた。何度も似たようなことを書くことが続いた。父も私も夕飯を食べていないことを思い出し、院内に併設されているコンビニでおにぎりとお茶を購入して食べた。それでもまだ呼ばれない。でも呼ばれないということはなんとか持ち直したのではないかと思った。

先生からお話がありますのでこちらに来てください

どのくらい待ったのだろうか。時計を見ていなかったのでよくわからなかった。先生の表情はそれほど深刻には見えなかったし、きっと持ち直したのだろうと思った。

しかし、先生から発せられた言葉は想像していたものとは違っていた。

貧血があることは知っていましたか。そしていつごろから貧血と言われていましたか

確かに通っていた病院の血液検査ではいつも「貧血」を指摘され、処方される薬にもそれを補給するものがあった。そのことが関連しているのだろうか。意図がわからなかったし、いつからかなんて覚えていなかった。

胃または十二指腸になんらかの傷がありそこから出血していたものと思います。胃カメラで確認ができていないのでわかりませんが胃潰瘍や胃がんなどがあったものと思います。

今はは処置をし心臓は持ち直しましたが、心肺停止していた時間が20分ほどあったと思われます。そのため脳に障害がでており瞳孔も開いています。また現在は自己呼吸ができないために人工呼吸器をつけています。症状がおちつけば胃カメラで確認し治療することはできますが、意識が戻ることはないと思います。この後案内いたしますが会っていただいてから決めていただきたいと思います。

パーキンソン病の悪化が原因とばかり思っていたが、消化器官からの出血が原因だったことに驚いた。

母は何十年も前から胃に不快感をうったえており、最近でもそんなことを言っていた。しかしパーキンソン病の薬が効いているときは不快感が消えていたようだし正直深く考えていなかった。また毎月通っていた病院でもそのことは伝えていたが専門は神経内科であり胃カメラやバリウム検査をすることなく病院からは胃薬を処方されたのみだった。母はもしかしたら助けてほしいとヘルプを出し続けていたのかもしれない。きちんと母と向き合うことができていたのならば気がつくことができたのかもしれない。私は罪悪感を感じずにはいられなかった。

処置室にいた母は全身管だらけだった。その姿を見たときに意識が戻らないのであれば、治療をして苦しむ時間が増えるのであれば延命しなくてもいいと思った。でも人工呼吸器ながらも生きようとしている母を見ていたら判断ができなかった。

その後、母はHCUに移された。HCUはICUとは違うものだろうかと思いながらも普通の病室とは違うことはわかった。後に調べてみたらHCUは「High Care Unit」の頭文字をとったものでICUと一般病棟の中間に位置するらしい。父と私はそこで母の横に付き添った。少し症状が落ち着いているように見えたので私だけ一旦家に帰り家にいる息子を連れてこようと思っていた。しかし、少しずつ血圧が下がりはじめ看護師さんから「今帰ったら間に合わないと思うのでここにいてください」と言われたので、慌てて息子に「大至急タクシーで●●病院に来て」と電話を入れた。

母の動きは人工呼吸器をつけているために大きく変わらないが、モニターに表示されている数字や波形がだんだんと小さくなっていった。手を握ってみるが氷のように冷たい。モニターの数字がほぼ0になった。ほぼというのは人工呼吸器の振動が影響しており、実際は心臓は動いていないと伝えられた。

このあと死亡確認を行いますが、息子さんが到着するまでは待ってます。

息子が到着するまでは、まだ母は生きているのだと思った。色々な思いがあったが今になって子供のころに感じていた大好きな母の姿が見えた。

息子到着後、人工呼吸器を外し心臓が動いていないこと、瞳孔に光を当てて反応がないことを確認し、6月18日の夜、日付が変わる直前が死亡時刻となった。

霊安室はドラマで見ていたのとは異なりとても明るい部屋だった。悲しんでいる暇なく葬儀屋の手配をしなくてはならなかった。病院と提携されている葬儀屋の一覧を見てスマホで調べ、自宅からのアクセスがよく一日葬や家族葬が行えるところを選択した。

6月21日(月)無事に葬儀を終えた。棺の中の母は苦しみをこの世に置いてきたように穏やかな顔をしていた。ようやく母と娘の関係に戻れたような気がした。


どこかホッとしている私がいる。「呪縛から逃れたこと」「母が苦しみから開放されたこと」。母も私も苦しんだこの約10数年という期間はやっぱり長かった。だから母が亡くなった日のことは残さないといけないと思った。

母がいなくなったという実感はあまりない。しかしどんな形であったとしても長い期間一緒に過ごしていたものが無くなるということは見える景色や感情は大きく変わるのだろうと思う。それは決して穏やかなものとは限らず、苦悩と向き合う時間の方が多いかもしれない。

それが私にあたえられた罰なのだろうと思う。ただこれが私の転換期であることは間違いなく、残された人生をどう生きていくのか改めて考えたいと思う。