面白さの正体 中級者向け 物語構造を元にしたシーンメイキング「反作用」「処罰」「結婚もしくは即位」クリエイターの為の批評コラム

前回はこちら。

前回同様物語構造とシーンメイキングの話を。前半は個別の物語構造ユニットの取り扱い、後半はこれまで何度も登場した「虚偽の認識」→「真相の解明」による完結性について細かく。


「反作用」は、何らかの形で「欠落」を与えられてしまった後、それを取り戻そうとする行動開始の合図です。「葛藤」とも関連していて、困難や対処を避け、敵への直接的な対抗手段を主人公が主体的に講じる、「決断」のシークエンス。「悩む」「迷う」という人間らしい部分を見せ、何故迷うのか、そのキャラクターにどんな事情があるのか、何か深刻な理由があって今まで手を出さずにいたのか、キャラクター性を一段深めて受け手に伝えられる構造ユニットです。

「反作用」は判断のシークエンスなので、その早さと遅さ、そう判断した理由でシーンとキャラクターを印象的なものにできるでしょう。


「処罰」は「31の機能」では終盤で敵が罰されるシークエンスとしてありますが、特に敵に限らず、物語で何かしら悪い事やルール違反をしたキャラクターに「お仕置き」したり、法廷物での有罪判決、刑事物での逮捕、ラッキースケベ後のビンタ等、シークエンスの区切りになります。エピローグを経て次の展開の伏線として利用する事も出来、プロット構成する際に1つの鍵になる構造ユニットでもあるでしょう。

特に「処罰」が作中広く知られたり、個人によるものである場合でも「照準」の機能を併せ持つケースになりそうです。「このキャラクターはこういう事をし、こんな罰を受けたのだ」という事実(噂でも)は、それによって何らかの立場の変化やそれへの対応行動を促すに十分なものになり得ます。


「結婚もしくは即位」。「新秩序」と言い換えてもいいでしょう。つまり新しい状況の始まりを示していて、これによってそれまでの物語は幕を閉じます。新たな幕開けがその直後に早速現れたりもしますが、ともあれ敵側の区切りが「処罰」であれば、主人公側の区切りは「新秩序」だと言えるでしょう。「欠落」は「回復」され「姿の変更」で新しい姿になり、「難題」は「解決」され、これまでとは違う世界が訪れます。あるいは訪れません。

続編を作る事を考えると、如何に新たな「欠落」を起こすか、それまでの物語と関連づける(それまでの何を伏線とする)か、という所がポイントになりそうですので、「新秩序」の具体化にあたって続篇や新篇の構成を視野に入れておくか、既に決まっているそれまでの物語と「新秩序」の形からどう続篇を捻り出すか、その接続的な発想を鍛えておくのも物語作りに役立ちそうですね。


・物語の面白さの正体「虚偽の認識」→「真相の解明」のディテール

「もしも、1つの結末が得られないとなると、主題というものも感じられなくなる」とシクロフスキーは言います。所謂「オチがない」「テーマが伝わらない」「何が言いたいのか分からない」というメリハリのない印象になってしまいます。以下のように。

「おや、おや」学生は叫んだ。「どなり声や、悲しげな泣き声が聞こえるじゃありませんか! なにか不幸でも起こったのですか?」
「あれはこういうことになったのですよ」悪魔が言った。「ほら、見えるでしょう、ランプや蝋燭をあんなにたくさんつけているあの賭博屋、あそこで2人の若い騎士が賭けトランプをしていたのですがね、1枚のカードのことからかっとなり、剣を取ってわたり合い、ついにたがいに刺しちがえてしまったのです。年上の騎士のほうには妻があり、年下のほうは一人息子です。2人とも、もう息もたえだえといったところです。それぞれの妻と父親は、この悲しい出来事を知らされるや、駈けつけたのですが、2人の悲痛な叫び声がこのあたり一帯に響きわたっているのです。『なんという親不幸者だ!』父親は、いまはもう、なにを言っても聞こえなくなっている息子に向かってどなっているのです。『賭けごとをやめるようにと、わしは何度おまえに言って聞かせたことか、命とりになるぞと、あれほど注意しておいたのに! はっきりと言っておくが、おまえがこんなぶざまな死にかたをしたって、絶対にわしの罪ではないぞ』妻のほうでも、やっぱり悲嘆に暮れ、夫が彼女の持参金を残らず勝負ですってしまい、宝石類から衣類までもすっかり売りとばしてしまっていたのに、それでもまだあきらめがつかないのです。彼女は、いっさいの原因となったトランプを呪い、それを発明した者を呪い、賭博屋や、そこに居合わせた者たちを呪い続けているのです」


これはシクロフスキーが著書で引用しているある話の一部ですが、ここまでは「明らかに物語ではない」と断じられています。しかし以下の部分は「完結した感じを与える」としています。


「きみが語って聞かせてくれる物語はたいへん面白いのですけど、目に入る情景がどうしても気になって、それもできないのですよ。いま、一軒の家のなかで、美しい女が若い男と老人のあいだにすわっているのが見えます。どうやら、とびきり上等のリキュールでも飲んでいるものらしく、しかもその浮気女ときたら、いっぽうでは老人に接吻を許しておきながら、老人には気づかれぬうちに、こっそりと若い男のほうにも手を接吻させていますけど、あの若い男はたぶん情夫なのでしょうね」
「ところが、事実はその反対なのですよ」悪魔が説明した。「若い男のほうが彼女の夫で、情夫は老人のほうなのですよ。あの老人は身分のあるおかたで、カラトラフ僧堂騎士団の団長さんでしてね。あの女にすっかり夢中になっているのですが、彼女の夫のほうは宮廷つきのしがない役人。そこで彼女は、計算づくめで、あの助平爺さんに媚を売っているというわけですが、それも夫にたいする愛情から老人をだましているのですよ」


確かのこちらの方が({少なくとも}クローズアップされている)主題がわかりやすい。つまり「愛情の形」です。勿論他のテーマやモチーフをピックアップするのも読み手の自由で、それが解釈の自由というものですが、表現者として特に強調して伝えたい内容があるのであれば、後者のように「その為にこれくらい(ここまで)するのだ」という具体的な行動を描くやり方が分かりやすく、伝わりやすいのではないでしょうか。

僕は前者の場合、賭け事が嫌いなのか、かっとなってはいけないのか、父親の嘆きがもっともなのか身勝手なのか、妻のあきらめられなさや呪いっぷり、そんな有様を今際の際に演じられている騎士達の気持ちなどをどう感じていいのか、何処に印象の力点があるのか分かりません。

つまりメリハリがないというのは受け手が印象の作り方に迷う、山場や見せ場がないという事のようで、それを避ける方法論が意外性を生む「逆行する感じ」、「難題」→「解決」、そして今回の「虚偽の認識」→「真相の解明」であると思われます。それは印象を強める方法論と言ってもいいでしょう。


どうも淀みなくすんなりいくと説明でしかなく、引っかかりながら一捻り加えると面白くなるようですね。「一見してこう」→「実はこう」という流れ(ミステリはこれが基本構造にあるので読者を満足させやすいのかもしれません{ちなみにシクロフスキーは「コナン・ドイルの短篇に共通する概念を図式化」しています})。


この2つを読み比べて、受け取った印象や感覚をそれぞれ覚えておく、という事をやっておくと、何かの役に立つかもしれません。「それが何なのか」を理解する為に人間には比較対象が必要ですし、又印象を手掛かりにして作品作りに取り組む事も出来ると思います。

理屈や方法を覚えて使う事も有効ですが、それを良い使い方で出来ているか印象や感覚でチェックできるようになると、より良くなるんじゃないでしょうか。


続きます。



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