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第15話「『どうだ ピンク色の光が見えてきたか?』」(批評篇・1) 西尾維新を読むことのホラーとサスペンス、ニンジャスレイヤー、そして批評家の立場と姿勢の話


前回はこちら。

(ご注意・本稿では西尾維新『終物語(下)』『続・終物語』『悲業伝』のネタバレを含みます。閲覧の際にはあらかじめご了承ください。尚、表紙画像と本文は一切関係ありません。その下の埋め込みツイートはイメージです。また、登場人物や組織の実名は伏せられている場合があります。そして、明かしづらい内容は不明瞭な表現となっている場合があります)


(これまでのあらすじ・男は語る。ある人物の陰謀が、巻き込まれた者によって文化的営為へと昇華されていく姿と、その渦中、彼自身に生じた異変とを)

作品にメッセージをしのばせる手段というのは受け取る側からするとタイムラグをチェックしなければならない。西尾維新の既存シリーズ(当時)では『終物語(下)』(2014年4月)『悲業伝』(2014年7月)から、以降新シリーズや単発の単行本も基本的に「策謀篇」で語った一連の出来事や関係する人物をプロット・キャラクター両面において参照項としていると考えて
よいと思う(少なくとも僕が観た限りではそうだ)。既に10冊を越えてこのような状況が継続しているため、一時期の西尾の作風はこの出来事によって変化を被ったという指摘は決して大袈裟ではなく、またそのように作られた作品のアニメ化・実写ドラマ化などのメディアミックス展開による波及効果、それらを通じて作品を享受する人口などを考慮すると、論ずるべき批評的論点があることは明白であろう。新垣結衣の演じた主人公がたとえその一部であれ自分がモデルになっているという経緯の説明を飽くまでも批評精神に基づいて行うべきであり、それは井上麻里奈演じる老倉育も同様だ。

記録によると、僕が『悲業伝』を読んだのが2014年の末頃、『終物語(下)』は年が明けて年始に読んでいる。この時点で約4ヵ月からそれ以上のずれがあるので、著者の執筆時期とその時点での状況把握や姿勢などを遡及して理解するよう努めなければならない。例えば歴史書の記述内容を理解するにあたって、その本に書かれている時代の一般的価値観、書かれている人物の価値観、その本が書かれた時代の価値観、その本を書いた人物の価値観、その本を読んでいる今の価値観、その本を読んでいる本人の価値観、以上6つの価値観(倫理)がそれぞれ別である可能性を前提しなければならないように。つまり執筆時の西尾の認識を、読んだ当時の僕の認識とどのように異なるか推測しつつ読解することが必要なのである。

もうひとつの条件は(これは今回の特殊性に由来するものだが)、ステルスリアクションとして指摘する上でやや都合の悪いポイントは不明瞭にしていく、ということだ。つまり『終物語(下)』を対象にする場合、「企み・企て」「手品・種明かし」「アクロバティックなこじつけ」「傍点まで振って『知ってる』」「酒」「でたらめな結末を最初から目論んでいたわけではない」などを論じぬままに列挙して終わらせてしまうということである。そしてそうしたことをカバーしたまま押し通すための(昇華篇)との並立構造なのだとここでお断りしておく。

『悲業伝』では「エリートの脆さ」をよく記憶している。あまりの衝撃に発狂するエリートの姿は、まさに「過渡期の人」(仮称)の様相であった(この作品は手元のメモの記述が少なく、ほとんど指摘できないものと思われる。ここで再読により精緻化するのは本末転倒であることは既に書いた通り。僕はこうした論点を網羅的に扱うのでなしにもっぱら大雑把に記録しコメントを添えるのみに留めることに決定したのだ)。『続・終物語』(2014年9月)では前記した西尾の変節(「そんなことするまでもなかった」)が暗に語られ、その後に始まる忘却探偵シリーズ『掟上今日子の備忘録』(2014年10月)から(いや、伝説シリーズの頃からその傾向は確かにあったと記憶している)、ほぼ毎ページにステルスリアクションを混在させるという過剰さを商業出版物で実現するという異様さを漂わせ始め、その特徴は
最強シリーズ・美少年シリーズでも共通している。

このようなただならぬ執着、尋常ならざる傾倒を批評家たらんとする者が看過できるはずもない。まして批評家というものは、ただでさえ、自らの批評的営為がなにがしかの事象でも生じせしめようものなら、自ら声を大にしてそのことをけたたましく喧伝するものなのだから(ここで弁明めいた真似を許して頂けるなら、批評行為に対するこのような反響の類は当事者たる批評家以外の者がそれを指摘することなどまずあり得ず、それゆえにこうした際批評家は不粋たらざれば黙殺の憂き目に遭う哀しい宿命を背負わされた存在であるということを述べさせて頂きたい)。

そのようなものであるということを前提して、この(批評篇)では西尾維新作品に焦点を絞り、ステルスリアクションとその源泉を、ステルスリアクションに刺激されたこちらの明示的反応などの応酬を、一連のコミュニケーションとして記述していく。そしてその様相は(策謀篇)で述べた内容に著しく制約されるだろう。それはこういうことだ。西尾維新の動機や真意がたとえ(策謀篇)で述べられた出来事のシークエンスそのものとかけ離れた点にあり、むしろそれこそが重要であったとしても、それに触れる機会はほとんどない。







そのようなものとしてこの連載が企画されたからこそ、今ここでその機会を設けようと思う。











全ての中心は歴史寓話にある。











では次回以降、(批評篇)で更なる提示をしていこう。

(註・埋め込みツイートはイメージです)


(第16話に続く)

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