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もめごと

職場の上司と若い女性スタッフが意見の相違でもめたという話を聞いた。
どちらも大人なので、きちんと対面で長い時間を使って話をしたようだったが、スッキリしていないのは感じられた。

わたしは話を聴いていて
上司が「世代の違いだね」と言って一段落つけようとしたことが
この女性スタッフにとっては腑に落ちない最大のポイントなのかもしれないなぁと感じた。

わたしも含めた昭和の世代の人間と
今、二十代で社会で働く人の間には
常識も価値観も、大きな違いがある。
それは当たり前のことで
今回、若い女性スタッフから
「若者世代から見て理解できない会社の常識やルール」について話を聞くと
とても勉強になるし、かなり恥ずかしい気持ちにもなった。

自分では全く気が付かないことで、慣習になってしまっている行為が
今の若者にとっては「失礼極まりない」と感じてしまうこともあると思った。
あらためて姿勢を正さないといけないなぁ、と
自分の言動について考えなおしている最中である。

わたしは、転職を繰り返して生きて来たので
「常識」の曖昧さをいつも見てきた。
この会社では、この職種では、この地域では常識だということが
転職した先ではガラリと変わる。
なので、軸は持ちつつも
「郷に入ったら郷に従え」ということになる。

この若い女性も同じ考えで
「会社のルールには従う気持ちがあります」

但し、上司の性格や経験によって変わる曖昧な
特に基準の無い感覚的な指導には説明を求めます!
という気持ちは、理解できる。

更に言うと
お互いの主張を理解できるかどうかは、あまり問題ではないと思う。
どんなに話し合っても、理解し合うことは難しい。
それは、同じ世代の同じ性別のひとであっても同じことで
「世代の違い」などではけしてない。


昔、小学校5年生の頃
よくケンカをする男の子達がいた。
意見が違ったり、何かあるたびに
1対1で取っ組み合いのケンカをする。
学校の机や椅子をひっくり返しての大喧嘩である。

今なら許されないことなのかもしれないが
当時の担任の先生は、大学を卒業したばかりの男性で
この二人がケンカを始めると
他の生徒を全員連れて、教室を出た。

校庭の芝生や池の周りでゾロゾロと皆で歩いたり座ったりしながら
先生の話を聞いたり、いろんな生物や植物を見て
先生と話をする時間がわたしたちには嬉しかった。
当時は、その行為を咎める大人はいなかった。

何回か、そんなことがあったが
ケンカをする二人は、と言えば
15分もすると、肩を組んで教室から出てくる。
他の仲間にはない二人の間に流れる独特の友情があるように見えた。

先生が
「もう気がすんだのか」
と聞くと
「はい!」
「じゃぁ、クラスのみんなに謝れ」
「ごめんなさい」「ごめんなさい」
そのあと、全員でまたゆっくりと教室に戻って
勉強した。


ひとは、意見が合わないからイライラするのではなく
相手が真摯に自分に取り組んでくれないから
ぞんざいにあつかわれたように感じて
関係がこじれていくのではないかと思う。

根底には、お互いにもっと知り合いたいのに
もっと話し合いたいのに
もっと理解したいのに
あなたは歩み寄ってくれなかった
あなたはわたしに無関心だった
という寂しさがあるように思う。

もっとも、この感覚さえも
わたしと、他の人との間には差があることであり
「違います!そんなことで悩んでるんじゃありません!」
と言われそうな気もするが…


人間関係は難しい。
わたし自身も、うまくいっていない関係を引きずりながら
あるいは、断ち切りながら生きている。

「愛の対極は無関心」
という、マザーテレサの言葉を思い出した。

自分は目の前の人に関心を寄せるような聖人になることはできないが
関心を寄せて欲しいのに関心を寄せられない人の悲しみに気づいたら
それには目をつむらないようにしていこうと思った。





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