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「ジャニーズ」と公共性

この人は開き直っているのだなぁ、、、と哀れまれてももう仕方ないと思っているのだが、わたしは「公共性」という概念を持ち合わせていないらしい。どうやったってきちんと理解できないし、心に落とし込めないし、獲得する気もない。

V6というジャニーズグループには「三宅健」というアイドルがいる。わたしは、三宅健のことを公民館とか公立の小学校だと思っている。というか、公民館より公共施設めいていると思っている。

この人はすごい。
とにかく誰も、誰も輪の中からはみ出させる気がない。例えはみ出そうになっても、手を差し伸べてくれるのが三宅健くんなのだ。きっと健くんが差し伸べる手からすらこぼれてしまう人はいる。それはそうだ。ただ最も公共的であるべき行政なんかより、ずっと隅々まで目が行き渡っているなぁと感じる。

握手会でろう者と出会い、それをきっかけに手話を勉強、いまでは手話の番組にレギュラー出演、という話は結構有名だと思う。もっと知れ渡るべきは、V6が出すすべての映像作品には字幕がついているという事実だ。しかも、「新しく出す円盤に字幕がない」とも読めるプレスリリースが出たとき、健聴者のオタクすら怒った。(これは誤報で、実際字幕はついていた)

これはすごいことなのだ。
三宅健というフィルターを通して、オタクたちは「耳の聞こえない人の存在」を獲得した。こんなことはない。たったそれだけで、「気づきづらい、困っている人」の存在を思い出す。


四肢不自由/知的障害を持つ子どもたちと多く接する機会があった。ここでとても面白い現象に遭遇したのだが、その場にいた女の子全員が「好きなジャニーズ」を持ち合わせていた。「先生は誰が好き?」と当たり前に聞かれ、「V6が好きだよ」と言ったら「へぇ、おじさんが好きなんだね〜」なんて言われた。

これには驚いた。
我々(そのコミュニティ)の共通項ジャニーズなんだ、と。

話すことが苦手な子も、キンプリの平野くんの顔を見てとても嬉しそうにした。みんなが嬉々として好きなジャニーズタレントの話をした。

24時間テレビで、毎年ジャニーズがパーソナリティーをやって、この番組は一体なんのためにあるのだ、と思ったことが何度もある。しかし、とても公共性が高く、できるだけ多くの人を支えることができるように作っているジャニーズのエンターテイメントはすごい。あの番組がある意味や持つ機能を少し分かった気がした。

多分この公共性を担保するために犠牲になっていることがたくさんあるし、必ずしもいいことだけが引き起こされているわけではない。それはそうだ。犠牲が発生することがいいこととは言わないし、できるだけ少なくする努力はすべきだが、この公共性の高さは、変な話だが行政にはできない、そこまで思うことがある。

わたしが求めている、やりたいと思っていることはここにはない、というかできない、そう強く思うことがたくさんあったのだった。

いただいたサポートでココアを飲みながら、また新しい文章を書きたいと思います。