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【オリジナル短編小説】『堀ノ内の桜』

東京都杉並区にある堀ノ内斎場は、住宅街のど真ん中にある葬儀場で、敷地内には火葬場もある。立地が良いためか、東京に住んでいれば何度かは訪れる機会のある場所だ。もちろん、回数は少ないほうがいいのだけれど。
そこは桜の名所としても有名で、春になると近所の人は桜を見にやってくるそうだ。僕は近所に住んでいるわけではないけれど、ある年から毎年桜の季節に堀ノ内斎場を訪れている。同窓会みたいなものだ。

八年前の春、高校時代の恩師が亡くなった。
恩師は僕の得意科目であった理科の教師で、僕が理系の大学に進学し、研究職を志すきっかけになった人でもある。恩師の訃報を聞いた時、僕は彼氏と晩酌をしていた。葬儀場を聞いた彼は、ああ、桜がきれいだろうね、と呟いた。どうして知っているのかと詳しく聞こうとしたが、全然答えてくれない。何回かの押し問答の末、彼がなぜか隠していた仕事についての事実が一つ明らかになった。彼の仕事は「花屋」だと聞いていたのだが、実は葬儀の花を専門に取り扱っているらしい。堀ノ内斎場の桜は、近隣住民と葬儀関連の仕事をしている人にとっての癒しだという。仕事について隠し事をしていたことの方が気になってしまい、途中から桜の話は頭から吹き飛んでしまったが、確かそこで桜を見ながら出棺を待っている時間がいいだとかなんとか言っていた気がする。恋人にはそういう節があった。小さな隠し事が多く、それは僕たちの関係性になんの影響も及ぼさないけれど、秘密の一部を明かしてしまうと、ワインの栓を抜いたように、隠していたことについて話し出す。確かに「花屋」は嘘ではなかったが、僕は「花屋の店先に並んだ色んな花」を並べている方の花屋だと思っていたから、そのギャップに頭が囚われてしまった。具体的にどんなことを仕事にしているのか気になったけれど、話はいつの間にか開花調整の話になっていた。
桜の枝の花を咲かすために、部屋の温度などを調整して開花のタイミングを調整するそうだ。
「俺はね、だから天然の桜の木が好きなんだよ」
「なんで?」
「人の力なんかを借りずに、自分でタイミングを見つけて自分で咲くから」
「それは、植物みんなそうなんじゃないの?」
「桜はさ、咲くのが早いだとか遅いだとか、人間に勝手に何か言われるんだ。それでも咲くんだよ。毎年毎年。お前にそれはできるのか?誰に何を言われても、自分だけのタイミングで花を咲かすって。できないだろ」
僕は、言い返す言葉を持ち合わせていなかった。

恋人とその話をしてから二日後の夜、僕は通夜に向かった。
恩師は現役を引退してからもう十年以上経つというのに、通夜には多くの教員仲間や教え子たちが参列した。祭壇の左右に並べられた供花には、多くの札によく知った名前が印字されて刺さっていた。恩師の助言をうけて「理科クラブ」を設立した先輩たちの連名や、僕が志した研究機関の名前もあった。その道に明るくなくても知っているようなシンクタンクの名前もあった。かと思えば、近所のテニスクラブと思われる名前も見られた。先生の生活が垣間見えるようで、なんだかむず痒い。
自分の焼香のタイミングで、背中に強い視線を感じた。その時は誰だかわからなかったのだが、思ってもみないタイミングでその視線の正体を知ることになる。

通夜が終わり、通夜振る舞いの寿司をつまみ、途中で気分転換がてらタバコを吸いに外に出た。目の前には満開の桜が広がった。
桜の木は不思議だ。花の色が明るいから、夜でも桜の下はぼんやり明るく見える気がする。街灯が一本増えたみたいなものだ。そんなことを考えていたからしばらく気づかなかったが、焼香の時に感じた視線をもう一度感じた。その正体は、同級生のスズキだった。
「よお」
高校時代と同じように、気だるそうに声をかけてくる。
「よお、スズキじゃん」
「今気づいたのか?」
「悪かったな」
「ま、お前らしいか」
よく見ると、スズキの右手にはワンカップが握られていた。
「お前、酒飲むなら中で飲めばいいのに」
「わかってないなあ、夜桜だよ」
「知ってて酒持ってきたのか?」
「当たり前だろ?四月上旬に堀ノ内だ。桜がきれいに決まってる」
「どうして知ってるんだ」
「どうしてってお前…先生の話覚えてないのか?」
「先生の話?」
「あの時、もしかして休んでたんじゃないか?」

 恩師の専門は化学だったのだが、生物と少しだけ似たような単元が一つだけあった。僕はそれが異常に苦手だった上に、一時間休んでしまったために、テストではその部分のほとんどを落とした。それがなんとなくトラウマになっていて、大学時代もその単元でつまづいた。そのつまづきを引きずるように、僕は志なかばに研究職を諦めた。対照的に、スズキは真っ直ぐに研究の道を進み、今はメーカーで研究職をしている。そんな、ある意味思い出深い単元で、桜の話をしていたなんて、知らなかった。

「『桜といえばですね、皆さん堀ノ内斎場は行ったことがありますか?新高円寺駅から歩いて少しの葬儀場ですね。あそこの桜がすごいんですよ』って」
スズキは無駄に似ているモノマネで当時の話を振り返ってくれた。聞いていれば覚えていそうな話だったのに知らないということは、僕は本当に休んでいたのだ。僕らの人生を分けた一時間だったとも言える。

「先生、葬儀場を選んだんだろうか?」
桜を見上げてスズキがつぶやく。
「いや、彼氏に聞いたんだけど、やっぱり亡くなった場所とか家族が住んでる場所で決めるから、先生が堀ノ内でやりたかったからそうなったわけじゃなさそうだよ」
「お前、彼氏いるのか」
「あ、」
酒と思い出話のせいで、スズキにはすでに恋人の話をしていると錯覚してしまった。僕はこれをごくたまにやってしまい、その度に彼氏に怒られるのだった。
「葬儀の仕事をしてるのか?」
「ああ、花に関係するそうだ」
「今度会わせてくれや」
その「会わせてくれや」は、今まで何度も受け取ってきた興味本位の「会ってみたい」とは何かが違った。だから、僕は元気よく「もちろん」と答えた。彼は怒るだろうか、と心配した。

まだ寒さの残る夜空の下話し込んでいたら、先生の娘が心配して出てきた。
「寒いので、中にお入りください。明日もあるので、お開きにしますね」
「ええ、今戻ります。すみません」
「あら、桜が本当にきれいなんですね」
「そうですね、本当に」
「桜を見ると、父のことを思い出すようになるのだと思います。桜、そんなに好きじゃなかったんだけどなあ」

駅までの帰り道、スズキは念を押してきた。
「お前の彼氏に言いたいことがある。だから絶対に会わせろよな」
「なんだよそれ」
「いいんだよ、会った時のお楽しみだ」

それでも僕は、勝手に彼氏の存在を明かしてしまったことに後ろめたさを感じて約束を反故にしていた。先生がこの世を去ってから、堀ノ内は三回桜を咲かせた。その間に、僕は彼氏と別れて、その後しばらくして彼女ができた。
先生が亡くなってから四回目の春が来た。桜が咲くたびにスズキのことを思い出していたけれど、今年こそスズキに話をしようと思った。彼氏とは別れたこと。今は彼女がいること。毎年桜を見るたびに、先生とスズキのことを思い出していること。勇気を出して、スズキの携帯に電話をかけてみる。少し長い呼び出し音の後に、聞きなれない声の女性が電話に出た。
「もしもし」
「あ、もしもし…スズキくんの携帯にかけたのですが、あっていますか?」
「ああ、息子のご友人でしょうか?」
「はい、スズキタカヤ君の高校時代の友人です」
「そうですか。実はタカヤは二年前に亡くなりました」
「え…」
「息子からのお願いで、誰にも伝えないで、とのことだったので、お知らせできず、申し訳ありませんでした」
「いえ、いいのです。スズキ君は、タカヤ君はそういう人だと思いますから」
「どうも、ご理解いただいてありがとうございます」
「あの…どうして亡くなったのですか?」
「…」
「わかりました。不躾なことを伺ってしまい、失礼しました」
「いいえ、大丈夫です。私たち夫婦も、いまだに受け入れられない節があります。どうか、少しでもタカヤのことを思い出してくれたら、それだけで十分ですので」

スズキ君の母親の声は疲弊していた。もう、この説明を何度もしているのだろう。スズキ君本人が思っているより、スズキ君には友達がたくさんいる。世の中は、そういうふうにできている。

だったら、と思い立ち、堀ノ内斎場に桜を見にいくことにした。近所の「自分にとっての標本木」はまだ満開だ。明日は雨予報。きっと桜は落ちてしまう。なんというか、今しかないような気がした。今、今見ておかないといけない。
窓の外に目をやると、もう日が沈み始めていた。今家を出たら、桜を見るころには夜になってしまう。それでもいい、僕は今日、桜を見にいかなければならない。明るい色のコートを乱暴に掴み取り、スマホと財布と交通I Cカードだけをポケットに突っ込む。イヤホンをつけようと思ったら充電が切れていて、助けを求めるように小さな赤いランプが点滅している。ランプより小さい舌打ちをして、スニーカーを履いて勢いよく家を飛び出す。

真っ赤な丸の内線に揺られながら考える。スズキ君が、元彼に言いたかったことはなんだったんだろうか。どうして会いたがったのだろうか。それが実現されていたら、何かが変わっていたのだろうか。僕も、スズキ君も、元彼も。あの時スズキ君のことを照らしていた桜の木の根を掘り返したら、何かが出てくるだろうか。はたまた何も出てこないのか。ずっと考えていたら、新高円寺駅に着くころには顔がほてっていた。気持ちを落ち着けるようにコンビニに寄って、ワンカップを購入する。

堀ノ内斎場に向かうのは久しぶりだった。でも四年前に先生の通夜に参列した時と何も変わらなかった。そして、先生が亡くなった次の年も、スズキが死んだ年にも、桜はしゃんと咲いたのだろう。
「誰に何を言われても、自分のタイミングで咲く」
いつだか元彼が桜について話していた時に言っていたことを思い出した。

 あの時スズキ君がその下に立っていた桜の木を探した。不思議なことに、そこにはワンカップが置いてあった。僕がおかしくなって、自分で置いたのかと一瞬疑ったが、僕の右手には確かに、さっき買って開封したワンカップがあった。誰かが置いたのか、はたまた−

 四年前の通夜の時にも思った気がするが、桜の木の下は明るい。まるで街灯がついているかのようだ。やっぱり不思議でならない。そしてぼんやり明るい桜を見ていたら、急にとてもやり切れなく、悔しい気持ちになってきた。元彼も、先生も、スズキ君もこの桜のことを知っていた。僕だけが知らなかった。いつもそうだ。落とした単元も、僕だけが知らない、僕だけが今に満足でいていなくて、僕だけがいつも、いつも、いつも置いてきぼりだ。スズキ君も先生も、僕を置いて遠くへ行った。元彼ももう連絡が取れない。僕だけが置いていかれる。うまく言葉にできないが、必要がないということだけはわかる焦燥感が、ワンカップに混ざっていく。焦りの混ざった酒は、なんだか少ししょっぱかった。

「どこ行っちゃったの?大丈夫?」

携帯が光る。家で待っている彼女からの連絡が映し出された。
ワンカップを地面に置き、桜の下にしゃがみ込んで連絡を返す。

「心配させてごめんね。今、高円寺あたりにいます。一時間くらいで帰るね」

僕が今生きている日常はこれで、これからもこういう日常を愛して生きていく。ここの桜は、きっと何があっても、僕を責め立てるように自分のイミングで咲いていく。誰かにとっての大切な人は毎日死んでいて、この桜はそれを目撃している。

なあ、お前は何を感じているんだ?お前も、俺を置いていくのか?
飲みかけのワンカップを桜の木の下に置いて、僕は家に帰ることにした。


それからというもの、桜の季節には堀ノ内斎場を訪れるようになった。スズキ君の命日は知らないが、スズキ君なら春がよいと言いそうだなと思い、勝手に春を命日にした。今年は冬にも暖かい日々が続き、桜の開花が早まった。新年度の忙しさも相まって、堀ノ内を訪れるころには葉桜になっていた。

誰に何を言われても、自分のタイミングで咲く。
たとえ僕が知らなくても勝手に咲く。
またくるよ。咲いていてくれよな。

(了)

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