茶沢さんになりたい

▶︎はじめに
茶沢景子という女がいる。茶沢景子は私が憧れている女だ。
私は、茶沢さんになりたい。

つい3週間くらい前、古谷実の「ヒミズ」という漫画を読んだ。茶沢景子はそこに出てくる女性の名前だ。
名前は知っていたし、映画化されていたことも知っていたけれど、とりあえず原作から読みたい病気の私は映画を放っておいた。染谷将太氏も、園子温監督もすきだから、スルーはしたくなかった。

結果的に、漫画は私の人生のバイブルとなった。ツタヤで借りて読んでたんだけど、買ってしまって、今手元にある。

「普通か、普通でないか」というデカい問いは、今の私にとってあまりにも激烈なパンチすぎた。どのくらい強烈だったかというと、まったくするつもりのなかった就活をまんまと始めてしまったくらいには強烈だった。就活がうまくいったら古谷実に手紙でも書こうと思う。

映画の予告を見てみたら、あまりにも染谷と二階堂ふみの印象が原作とかけ離れすぎていて引いた。レビューで「原作と違う」というのはたくさん見たけれど、とりあえず見ようと思った。

アダプテーションとして、地獄だった。
作品の表現手法が変わればメッセージ性も変わってきて当たり前だし、アダプテーションとはそういうものだ、と言われてしまえばそうかとも思える。しかし、ヒミズには作品に対する思い入れの深いファンがいるはずだ。園子温監督のお好きな「事実を基にした映画(『冷たい熱帯魚』『愛なき森で叫べ』など)」とは話が違う。

というわけで、この先クッソ長いが、映画と対比しながらヒミズの何がいいか、という愚痴込みの感想をつらつらと書いていく。あまりにも長いので読まなくていい。

*免責*
・漫画・映画ともにネタバレ含む。
・ネガティブ表現多め。
・演者はみんな大好きだし、園子温作品も好き(あんまり見てないけど)。原作ありきで売り出したにしては、という私のがっかりの感情で以下は構成されている。怒らないで。

▶︎映画として好きだった点

・まず染谷将太と二階堂ふみの組み合わせは最強。あの怪演には誰もかなわない。大好き。
・金貸しのでんでんが優しくなってからのキャラが死ぬほどいいキャラだった。多分あの中で一番まともな大人。先生もまともじゃない。ヤクザはいい人なんだよなあ。ヤクザと友達になりたい(?)でんでんと園子温の組み合わせもとてもすき。
・園子温の良さはエログロでは決してないと思っている。私は、それらの過激な描写を通して得られる「絶望の中の偽物の希望、でも偽物だって希望ならそれでいいじゃないか」というある種のトランス状態を求めて園作品を見てしまう。それは今作でも見受けられた。
・住田くんは、あの家の中でだけ弱音を吐く。そういえば園子温は頭の中のつぶやきを音声にする描写をあまりしないかも?漫画でも映画でもできるけどあえてやらないところがすきだった。

▶︎住田くんをめぐって

まず住田があまりにも暴力的すぎる。住田は理由のない暴力はしない。なぜなら住田くんは優しいから。夜野(原作では同級生)をいじめから救ったり、茶沢さんに相合傘を勧められた時にこいつも、と傘に入れてやったりするくらいには優しい。あまりにも動機の薄い暴力が多すぎた。ましてや茶沢さんに手をあげたりしない。茶沢さんのことがすきだから。

それから、おまけ人生を始めた時、絵の具を顔に塗りたくった。彼はそうやって色を使った自己表現をしない。そういうところがいわゆる住田くんの「普通」なところなのである。ちなみにアート的な自己表現というプロットは漫画では友達の「赤田」という奴が背負っている。(後述)

そして母親が家を出て行ったタイミングで、住田は新聞配達のバイトを始める。金がないからちゃんと稼ぐ、というリアリティーはそっちの方がある。しかし新聞配達の人間関係が面白いから、映画としてボリューム出ちゃうのを避けたかったのかなあ。

一番がっかりしたのは、父親を殺すというくだりだ。
住田はふとした瞬間に、あるはずもない場所にブロックがポツンと置いてあるのを見つけてしまう。(そのシュールさが古谷実なのかな、勉強不足)
そのあと本当にふと、殺してしまう。
そして淡々と殺し、淡々と埋める。人を殺した後に「やっちまった」とパニックになるのは確かに非常にリアリティーがあるが、命が消えた後に「あーあ」と思ってしまう謎の薄気味悪さがこの作品ですきなポイントだ。ちなみに「やべえやっちまった」は後述のヤンキーと夜野パートが背負ってくれている。

しかし染谷将太はすごい。ビジュアルも演技も決して原作に近くはないが、最後の夜なんて限りなく住田だった。説得力があるからとてもすき。一番すきなのは『さよなら歌舞伎町』あっちゃんも超可愛いのでぜひ。

▶︎茶沢さんをめぐって

まず二階堂ふみはめっちゃ可愛い。可愛すぎるのだ。
ちなみに二階堂ふみは光GENJIのオタクらしいのだが、推しが私と同じなのだ。いわゆる同担。今日のブログチェックするの忘れてて、二階堂ふみを見て思い出した。ハッピーラッキーキノッピー。「二階堂ふみ 内海光司」で検索かけると、超可愛い二階堂ふみが見られる。

失礼。そう、可愛すぎる。
度々住田家にやってきて迷惑客をやっているが、その時に見せる表情がエッチでエッチでたまらない。茶沢さんは可愛くはない。美人でもない。体格もいいし、態度もでかい。ただ時折とってもえっちで、とても強くて、とても弱い。そんな茶沢さんが大好きだ。
映画では茶沢さんは虐待をされている。あれで何を訴えたかったのかはまったくわからない(ごめん)。そのせいか、茶沢さんはしょっちゅう泣く。数えてしまった。7回泣いてた。漫画の茶沢さんは泣かない。
泣かないけど、「住田くんが死んじゃうんじゃないか」と思ってしまうくらいには弱くて儚くて脆い。そこがたまらなく愛おしい。

これは私情なのだけれど、私もたまに「こいつ今日死んじゃうんじゃねえの?」と時々思ってしまう人がいる。ヒミズを読みながらずっとその人のことを考えていた。

だけれども、茶沢さんは「自殺しないでよ!」なんて言わない。絶対に言わない。死んだりしないでね、って体全部で言ってくるのが茶沢さんだと思う。

そしてまさかとは思ったが、おまけ人生を始めた住田が無駄に茶沢さんに手を出そうとした時に「おまけだからセックスするんだ?」と言って立ち上がり、ズボンのチャックを閉めるという茶沢さん全開のくだりがなかった。彼女は意味のないことはしない、なぜなら、住田くんがすきだから。

なんというか、ポップじゃない。こんなにポップな人ではない。
どこか近寄りがたいけど、抱きしめてしまいたくなって、だけど抱きしめたら壊れてしまいそうなくらい脆い、人間ってそういうもので、実は茶沢さんはとても人間らしい。そういうところがすきなのだ。映画の茶沢さんはすきになれなかった。

染谷将太と『悪の教典』で共演してたね、あれとってもすき!

▶︎夜野をめぐって

前述したが、夜野くんは原作では同級生だ。ギャグパートを請け負ううちの一人だが、住田と同じ中学生であること、ふつーであること、これにどれだけの意味があるのかということを思い知らされた。しかし不思議なことに原作に一番忠実だったキャラは夜野だったかもしれない。

夜野が大人であることによる弊害は飯島とその彼女とのシーンに顕著に現れた。まず夜野はスリの常習犯で飯島に目をつけられる。そして飯島の彼女で童貞を卒業する。ここで、常に住田にマウントを取られ続けていた夜野が、セックスによって逆にマウントをとるようになる。映画ではセックスしなかった。ちなみに彼女は吉高由里子だった。かわいい。
夜野からそんな話をされたから、茶沢さんとエッチなことをする夢を見てしまう、なんていうふつーの中学生みたいな夢を見ちゃう住田、というところまでが住田を表しているのに、そのプロットまでごっそり抜けた。住田が中学生であることを普通に忘れる。

▶︎セックスをめぐる問題

茶沢さんと住田くんがセックスをしただろう描写すらなかった。え、監督お得意のエロ描写っすよ・・・・。
一度は「おまけなのか」と行為を断った茶沢さんは、卒業証書と卒業アルバムを渡しにやってくる。その折、茶沢さんのスカートの中をまさぐり、茶沢さんに「超いやらしい・・・・」と言わせた後、セックスをする。それから彼らは動物のように行為を繰り返し、まるで動物、と茶沢さんに言われるまでになる。

いかにも普通だ。
すきな女とセックスする男。いかにも普通だ。その普通さが、普通でない中にあるあまりにも普通な景色がすきだった。それは、映画の中にはなかった。

▶︎「河原で派手にコケました」

これは住田が一瞬かくまったホームレスが実は性暴力を振るう男で、茶沢さんを襲った後に彼女がそこから抜け出し、その時の怪我について茶沢さんがついた嘘だ。

「河原で派手にコケました。」

この一言が茶沢さんのすべてだと思った。ああ、これが強くて、本当に弱い女のすべてなのだと思った。茶沢さんみたいな女が許されるのならば、茶沢さんになりたいと思ったのだ。

まあそのホームレスのプロットが丸ごと抜けていたので致し方ないが、それにしてもとっても残念に思った。大好きだったので・・・・。

▶︎「頑張れよ」

学校を休みがちになってしまった住田に向かって茶沢さんがいう。
映画ではこの「頑張れ」という言葉が冒頭10分の間で出てきてしまった。
茶沢さんが唾を飛ばしながら、住田に馬乗りになって言う「頑張れよ」とは威力がいくつも違った。

確かに、映画での「頑張れよ」は全く違った意味で威力のある言葉だった。そういう意味ではとてもいい言葉だった。

ただ本当に大好きなセリフだったので涙が出るほど悔しかった。
古谷実先生はこれを許したのだろうか?

▶︎「普通」

冒頭でも触れたが、古谷作品で問いかけられる「普通である、普通ではない」という問いはあまりにもでかい。そして漫画で問われていた「普通」はいわゆる”普通”だった。

しかしこの作品には「東日本大震災」のあった世界という前提がある。
あの時、「普通」「日常」という言葉の定義は全く違った。「普通」に定義があった。今でもそんな「普通」なんて概念は存在しないのだけれども、そして今でもその「普通」が得られていない人がたくさんいるという前提はあるのだけれども、当時の日本には明確な「普通」があった。というかむしろ明確に「普通ではない」という状態があった。

漫画において住田が、そしてすべての人類が目指すべき「普通」は「現状維持」だった。高くも低くも目指さない。
一方映画で日本が目指していた「普通」は"get better"だった。「普通ではない」状態からのスタートだった。

その時点で「原作がヒミズである」ということは忘れて映画として楽しむべきだったのだけれど、「原案:ヒミズ」とするにしてはあまりにもセリフの引用や大枠が同じすぎるのだよね。(『愛なき森で叫べ』のレビューにもこの手の感想多かったですね。個人的には好きなんだけど、元を知っている人からすると悲しいよねえこういうの。)

この私がめちゃめちゃに影響を受けてしまった「普通」という問いの本質が大きく変わってしまっていたことが悲しかったし、それだけこの物語で問われていることが大事だった。

▶︎漫画のプロット抜けに対する考察

赤田という登場人物とそれにまつわるプロットがごそっと抜けていた。多分、映画においてそれの補強が住田の家の近くに住んでいるホームレスなのだと思う。

「目標」とか「生きる意味」とか「夢」とか「自己表現」とか、そういうポジティブな部分と、それを否定する住田、という構図を頭で見せつけるのに非常に大事なプロットで、そこが抜けていたのがとっても悲しかった。

しかし、鑑賞後時間が経つと、園子温なりのリスペクトだったのかな、と思う。
園子温は『夢の中へ』で”俳優”を『地獄でなぜ悪い』『愛なき森で叫べ』で”映画”を取り扱った。自分がやっていることを描く、少しメタ的な表現が多い。
漫画における漫画家の表象は、園映画における映像芸術の表象と同じだ。園子温が映画監督として、漫画家が描いた漫画家を描けないと思ったのなら、ものづくりという視点においては最大のリスペクトだと思う。かっこいいなあ。本当のところは知らない。

▶︎希望について

希望のないオチだったとか、原作より希望のあるオチでよかったとか、そういうレビューが目立っていた。

作品に希望を求めてどうする。と、個人的には思う。

なんというか、生きていて基本的に希望はないと思う。
希望なんてない。私の人生にはない。あるのは昨日と今日と、「すき」だけだ。古谷実の作品に希望はない。希望はないけど、今日がちゃんとある、そしてそのどうしようもない閉塞感みたいなのをなんとなく肯定してくれている。その肯定の仕方はあまりにも残酷だけれども、あまりにも美しい。住田がピストルで自殺して、それを茶沢さんが見て「なにそれ」と一言呟く連載のオチ。『ヒメアノ〜ル』で森田が「普通じゃない」と気づいて道端で泣いてしまうコマ。あまりにも、あまりにも残酷で美しい。

人生の讃歌だと思うんだ。

大人の夜野が事務所で「あの子の未来のために」と盗んだ金を返したんじゃ、なんの残酷さもないし、なんの勇気ももらえない。子供ために大人が奔走するのは当たり前っちゃ当たり前なんだ。あれをあえて描いたのは震災って前提があったからに他ならない。多分、大人と子供の関係が崩れてきてしまっていることへの園子温からの警鐘なのだと思う。

それから「化け物」については全く触れなかったけれど、それについてもかなり悲しい。

あの作品に、『ヒミズ』に希望はいらなかった。そんなもの描いてくれなくてよかった。とても悲しかった。

▶︎クソ長くなったが

つまりなにが言いたかったかというと、漫画『ヒミズ』にめちゃめちゃ影響を受けてしまったということ、あまりの原作レイプに驚き、悲しくなってしまったということだ。なにも否定はしたくない。
映画は映画としてめちゃくちゃよかったし、もっと園子温の作品を見たくなった。
好きという感情を曲げられてしまったら、人は誰でも悲しくなる。

悲しみに任せて、書いてみました。



まあ余談だが古谷実作品、登場人物の名前に田んぼの田がつきすぎ。笑
映画『ヒメアノ〜ル』でV6の森田剛演じる森田正一が、「高校の時岡田ってやついたじゃん?」ってセリフを吐いているのを予告で見たとき「あ〜終わったわ〜」って思った限界V6オタク。ちなみに岡田役は濱田岳。パニック。

こっちにも住田、赤田、飯田、小野田、内田が出てくるね。日本は田んぼいっぱいあるからしょうがないね。


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