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自分の感情に向き合って生きる|自己紹介

「人生しんどい」「死にたい」そんな毎日を送る責任感強め、自己肯定感低めの社会人1年目の緋那です(2019年10月時点)

あれ?私の人生、本当にこれでいいの?

と気づいて考え始めたのは8月のお盆休みくらいで、でもやっぱり行動にならない自分がいて、なんとか行動を続けられないか…と始めたTwitterとnote。

今回は、自分の過去を冷静に振り返ってみよう、というのも兼ねて自己紹介させていただきます。

1、未就学児〜小学校時代

母親のことを「愛している」「大切だ」と言いながら閉じ込めたがる父親。携帯を持たせない。門限は夕方の5時。母のパートにも大反対だった。

一方で、父の機嫌を損ねるとわかっていて父の「禁止」を破る母親。「離婚」という言葉を出されたら何も言えない専業主婦だった。

父が中心に回る家。父の機嫌を損ねてはいけない、というのが一番だった。

「お茶」と言われればお茶を持っていき、「ビール」と言われればビールを持っていく。

母が門限を破るとき、父が時間に気づかないように、母が帰ってきたときに噴火しないようにと父親の機嫌をとる。

小学校1年生の頃にはもう、「家ではいい子じゃないといけない」 「素を出せない」と明確に思っていた。

それを功を奏してか、自分に父の激情が向くことはなかった。

けれど、絶えず引き起こされる両親の喧嘩。
原因は大概、母親が父親の「禁」を破ること。

暴力こそないが、一方的に父が母を泣かせる。父は母の言うことを理解する気もないし、母は父の言うことを理解できない。とにかく母が泣いて、ごめんなさいもうしないから、で終わり。でも、またする。そしてまた喧嘩。

結局、2回の別居。

小学校1年くらいのときに「お父さんとお母さん、どっちがいい?」って聞かれたときのことは今でも覚えている。

幼心に離婚を前提にした質問だ、って気づいていた。私の言葉1つで結果が変わっちゃう。一生懸命考えろ。って思って、「どっちも。一緒がいいよ」って答えた。

父親が怖くて離れたかったけど、専業主婦の母だけでも生活が成り立たないこともわかっていた。

私の人格形成に一番影響を与えたのは、この時代の家庭環境だろう。

当時は土日になればいつも友達の家に遊びに行っていた。楽しかったというのもあるのだろうけれど、むしろ避難していたんだと思う。それほど家に居たくなかった。

2、中学校時代

父が単身赴任して、少し家庭環境は安定。
ただ、中学自体が今思えば少し異常だった。

規律が厳しい、と言う言い方をしたらいいんだろうか…?

校歌を歌うときには音程なんて二の次以降で、叫ぶように声を出す。
下駄箱の前に既に登校した生徒が集まって「おはようございまーす!」と次々登校してくる生徒に挨拶を飛ばす"挨拶運動"が毎朝行われて、式典系の起立・着席は「ザッ」の一音で揃うまで何度も練習させられた。

地域の他の中学校からは「軍隊」とか言われていると耳にした。

そんな旧時代的で教師に対して従順であることが評価された中学で、私はまさに「優等生」であり続けた。

成績優秀(5教科、500点満点のテストで自己ベストは492点)
生徒会副会長を務め、体育祭・文化祭ともに実行委員も経験。
卒業式では答辞を読んだし、
卒業後は中学の新入生の2泊3日の合宿に「先輩役」として招かれた。

土日も長期休暇も部活でほぼ潰れて、どこかに遊びにいく時間も体力もなく、家でゲームしたり漫画読んだりがせいぜい。

中学生らしい中学生、ではなくて、
親と先生という周りの大人の期待をひたすら体現した中学時代だった。

3、高校時代

地元で一番の進学校に進学。勉強に忙殺されて、高校1年の夏には「みんな、なんで笑っているんだろう…」と思うほど苦しんだ。

平日は学校行って、夜遅くまで勉強。土日は午前中に部活に行って、ご飯を食べたら図書館に。遊びといえば月1で友達といったカラオケくらい。
毎朝ご飯を食べながら見ていた深夜アニメと、週1の週刊マガジンが息抜き。

その努力の甲斐もあって、進学校の中でもトップクラスの成績を維持した。だがそれは完璧主義を強化し、学年が上がるごとに孤独感を増していった。

成績上位者は名前もクラスも張り出される学校。
ディベート大会やら英会話大会やらで1年生の頃に学年全体を前にすることが多かったこともあり私は「成績優秀者」として知れ渡っていた。

「テストの点はどうだった?」「模試の判定は?」なんて会話にも混ざれなくて、「緋那は頭良くてすごいね」と一線を引かれているのを感じた。

「特別」「すごい」の言葉の裏に、「別次元の人間だ」という思いを感じ取って、「同じ世界に生きていない」と言われているかのように感じていた。

私もあなたたちと同じ笑いもすれば泣きもする、普通の女子高生なのに。
高校の1年から積み上げた努力なんて知らないくせに。

今から思えば自意識過剰だったのかもしれないけれどそんなことを思っていた。

家庭は、中3から高2にかけて本当に嵐が吹き荒れていた。
兄と姉に関することなのであまり詳しくは書けないけれど、1つだけ。

確か、私が高2の正月だったと思う。
既に大学を卒業していた姉が母に対して「もっと愛して欲しかった」「私の友達を認めて欲しかった」と言って泣いた。

普通に頭が良かったのに、地元のトップの進学校ではなくて、かなりランクを落とした高校に進学していた姉。その学校の友達を母は「所詮××高の子」と見下すような発言をしていたらしい。

「お母さんは良い子じゃないと評価しないんだ!無条件で愛するのが親じゃないの?」というようなことを姉は泣きながら訴えていた。

私は姉が大好きだったけれど、そのときは「その学校への進学が望まれていないと知っていて選んだのはお姉ちゃんでしょ。私は、その期待に沿うようにして愛されている。期待されている道から外れる時にその覚悟をしたんじゃないの?」と冷たく言い捨てていた。

この時、自分の「感情」みたいなものに疑問を抱いて。

後輩の相談に乗るときなんかはぼんやりと、

外から見る分には成績も申し分なくて「理想の高校生」なのかもしれないけれど、同じ生き方をしてほしくないな…

って思っていた。

4、大学時代

そんなこんなで大学受験は第一志望に受かって、晴れて大学進学。
家から通える距離ではなくて、実家から出て寮生活。

大学1年のうちは運動部と演劇サークルを兼ねていて、殺人的スケジュール。週8で用事があったし、授業と合わせて平均睡眠時間4.5~5時間くらいの忙しい生活だった。

大学2年で演劇サークルをトーンダウンしても、代わりにバイトを入れて奔走した2~3年生。3年の秋から真剣に進路のことを考え始めて、大学4年の4月から今の会社でインターンを始めた。

とにかく予定を入れた。入れて入れて入れまくった。
完全に予定のないオフなんて、月に1回あるかないかくらいで。

1年で3回くらい熱出して、「絶対過労だろ!」みたいな熱の出し方は思いつくだけでも4年間で4回はやった。

泊まりの課外授業で熱出したときは体感では38℃を超えていたけれど、誰にも知らせずに寝るときだけ濡れタオルを頭に置いて、気合いで乗り切った。

休むことが怖かった。
漫画読んで潰した1日は焦燥感と罪悪感で胸が潰れそうになった。

「楽しかったか」と聞かれても、「何が楽しかったか」と聞かれても、答えられない。ただひたすら、懸命に走って生きていた。それだけだった。

5、社会人になって

卒論を提出したのは2月。3月にはもう寮から出て会社近くの新居に移り、社会人ばりの働き方をしていた。

朝は7時くらいに起き出して、仕事を終わって帰るのは23時とか…
日をまたぐのはザラで、土日もカフェで仕事用のPCをカタカタ…

社会人としては1年目でも、インターンから数えれば2年目。
インターン生ながらも後輩がいて、任される仕事は明らかに社会人1年目がすることではなかった。

求められる急激な成長。
次から次へと降って湧く課題。
期待がプレッシャーに変わるまでそう時間は要らなかった。

ヤマは6月だった。
その先には日常が待っているはず…
それだけを救いに、命を削るような思いで駆け抜けた5、6月。

けれど、7月に待っていたのは日常ではなくて。

7月にチームのトップが抜ける。

そう告げられたのは6月中旬だった。

相対的に私の地位が上がって、仕事が増えて、責任範囲も広がる。
ヤマを越えた先に待っているのは日常じゃなくて、新しいヤマだった。

心が折れた音がした。

定期的な上司の面談の時に、泣いた。
泣いた、というより涙が溢れて止まらなかった。

上司がフォローに入るから大丈夫、そう言われた。

このくらいの頃から、本当に朝家を出るのがしんどくて、会社に行きたくなくなっていた。土日に仕事をする活力も出なくなってきていた。

7月はとにかく生きて、8月のお盆休み。10日くらいあって、ほとんど仕事しなかった。いろんな本を読んで、自分の人生に向き合おうと決めた。

そして、「好きなことってなんだっけ」という自分に気づく。
中・高・大とせわしなく生きて、遊びなんてろくにしていなかったから、ある種仕方のないことなのだろう。

過去に戻ることはできないからせめて、今から生き直そう。そう決めた。

けれど、お盆休みを終えて8月下旬から1ヶ月。
自分の人生に向き合おうという決意は薄れて、結局忙殺されたままだった。

このままでは何も変わらない…

誰かに宣言して、見られる状態にしたら行動が続くんじゃないかと思って、Twitterとnoteを始めた。

まずは自分のために足掻いて、その足跡を残せば、同じ状況で足掻く人の参考になるかもしれない。そんな意味も込めて。

目標は、私らしい、本当の笑顔を取り戻すこと。
その先で、誰かを癒せる人間になれたら、とも思う。
(大学も出た今、臨床心理士取るのは現実的ではないよな、と思いつつ…)

ということで、長文にお付き合いいただきありがとうございました。
少しでも私に興味を持っていただけていたら幸いです。

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