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喫茶店で資本主義に潰され、芸人に救われた話


土曜の夜。京都は人で溢れていた。

今日は、夜更かしをした弊害で昼過ぎに起床してから、よしもと祇園花月で観劇するために街にでていた。
ライブのあと、祇園から鴨川越しに飲食店のひしめき合う河原町を眺める。ギラギラと輝くネオンに、千と千尋の神隠しのワンシーンが重なり、なんだかエモーショナルになる。

夕飯は外で食べようと思っていたので、靴擦れの足を引きずりながら、夜遅くまで営業しているという喫茶店に向かう。


入店


地下への階段を下り、店内に入ると
「いらっしゃい!」
「こんばんは、おひとりですか?」
と気さくに声をかけられて、少し心がほぐれる。
お客がまばらだったので、贅沢に奥のソファの2人席に座ることにした。

見渡すと、他の客は男女ふたり組ばかりで、何となく心細くなる。
今にはじまったことではないと気にしないフリをして、紅茶とプリンアラモードを注文して鞄から文庫本を取り出す。

『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』

オードリー若林さんの旅行記である。
気になってはいたものの読んでいなかったのだが、この間Amazonのトップページの最上部に突然現れたので、半ば衝動的に購入した。

その内容は、私の期待を遥かに飛び抜けて面白かった。若林さんの『ナナメの夕暮れ』で、その文才は知っているつもりだったが、
キューバ(内容は主にキューバでの旅行記である)という国の陽気さなのだろうか、若林さんが見て感じたことがそのまま入ってくるし、それでいて彼の考えてしまう性質も客観的に、コメディチックによく表されていて、とても面白い。なによりどんどん読み進めてしまう文のリズムの良さといったらない。
ここ数日、寝る前にかかさず読んでいた。

自意識


暗く照明の落とされた店内で、ジャズが流れている。それに重なって他のお客の話が漏れ聞こえる。……いや待てよ、漏れ聞こえるどころではない声量で話してる奴がいる。
隣のテーブル席にいる男女だ。帽子をかぶっている男性が、ここは居酒屋か?というくらいの声量で向かいに座る女性に話し続けている。女性に話を振るわけでもなく、永遠と自分語りをしているので、この女性は嫌じゃないのだろうか、と少し同情する。

どうもカップルではなさそうだ。お互いに敬語で話してることから、どうも初対面らしい。知り合いの紹介か、マッチングアプリか。

そういえば、私もマッチングアプリで出会った男性と会ったことがある。どんな人だろうかとはじめは慎重だったが、意外と初対面でも楽しかった。私情で次のデートを断ったために、気まずくてもう連絡はとっていないが。

今でもアプリをやっていれば、こんなところで1人でお茶をするハメにならなかったんだろうか、と少し惨めな気分になる。

しかし、ひとりで行動して何が悪いのだろうか。
さっきから惨めな気分にさせているのは、繁華街を歩くカップルでも、隣の席の大声で自分語りをする男でも、私をスルーして他の人に声をかけるキャッチのお兄さんでもない。
「休日の夜に女一人で行動するなんて、自分は誰からも必要とされてないと認めるようなものじゃないか」と感じている私自身の自意識なのだ。いや、そういう思考にしたのは世間なのか。 

私だって、せっかく外食するなら恋人や友人と時間を過ごしたい。正直、隣の席の自分語り男も、うるさいけど誰かといるのが羨ましい。
私は昔から、非・連れションに始まり、教室移動や展覧会、旅行などに行くのも単独行動で平気(というか可能)なタイプだ。時間を守れないので、むしろ1人のほうが迷惑をかけなくて済む。だが、ひとりはラクな分、寂しさもある
昔は「寂しくないの?」ときかれても「いや?全然平気だけど」と生意気にスカしていたが、最近になってようやく自分の中で認められるようになった。
(おわかりいただけただろうか。私はめちゃくちゃダサいやつなのだ。)

とにかく、私の中には、ほんとは寂しがりなのに1人で行動しているから、道行く人に笑われてるんじゃないかと自意識過剰になる自分がいる。

しかし「独り身は惨め」だという刷り込みはこの資本主義社会のせいだし、みんな見栄を張って誰かとつるんでるんじゃないのか。と歪んだ見方をする自分もいた。

オフラインの鴨川デルタ


注文した紅茶がテーブルに運ばれてきた。金属製のティーポットからカップにお茶を注ぐと、卓上のフェイクキャンドルが写り込んで紅くゆらゆらと光る。
隣席は仕事の話から、夜通し飲み歩いた話に切り替わっていた。
私は一度閉じた文庫本を開き直す。


今読んでいるところは、キューバでの旅の終盤である。
社会主義国のキューバに来たのは、若林さんが、資本主義で競争社会の日本で生きづらさを抱えて生きてきたからでもある。

私も、生き辛い人間だ。

同窓会のドレス然り、多くの人の「普通」でいつも引っかかるし、なのに大雑把で見栄っ張り。
多数派に属して安全でいたいのに少数派だから、いつも多数派の仮面を被っていた。若林さんの言葉を借りるなら、『世間を信用してない』ことがバレないように生きていた。少数派であることを認めてから気づいたことは、多分この、多数派主導の競争では勝てないということ。

芸大というやや特殊な環境にいるから今は居心地がいいが、もし一般大学にいたらと思うと息が詰まりそうだし、居場所がないのではないだろうか、と何度も考えたことがある。(一般大学の方が規模が大きいので居場所は見つけられそうな気もする。どっちやねん)
正直、就職したくない。社会に出るのが怖くて仕方ない。

人には話せないある種の「しんどさ」をずっとなんとなく抱えていた。
この競争社会で、20も歳の離れた売れっ子芸人も、同じように苦しさをかかえていたのか。


社会主義国のキューバに行って、著者は夕暮れ時のマレコン通りに集まる人々に、血の通った関係を見る。
堤防沿いで笑い合ったり、演奏したりするキューバ人の描写を読んで、私は京都出町柳の鴨川デルタで見た光景を思い出した。

その日は友人と、日曜の昼下がり、鴨川デルタを目指して、加茂川(デルタより上流の鴨川をそう呼ぶらしい)沿いを歩いていた。
川沿いにはたくさんの人がいて、ジョギングをしたり、トランペットを吹いたり、釣りをしたり、寝転がって昼寝をしてたり、本を読んだり。スマホを触っている人はほとんどいなかった(ように感じた)。

そこには思い思いに時間を過ごす人たちがいて、たぶんみんな楽しんでいて、その空気感に触れるだけで幸せな気分になった。
こういう人のあったかい集まりを、コロナ禍になってから久しぶりに見た気がして、みんな生きてるんだ、生きていたんだなと感じた。オンラインで、平たい液晶で共有するのとは全く違っていて、たぶんこれはオフラインでしか感じることのできない空間。すごく尊いな、と思った。


資本主義サバイバル


しばらくして、プリンアラモード(正確にはロッキーマウンテンというチョコがけのアラモード)がやってきた。
プリンアラモードはいつ見てもワクワクする。甘いものが嫌いな人以外で、甘くて美味しいものが高く盛られていてときめかない人はいないだろう。罪深くて最高の食べ物だ。

パフェ用の柄の長いスプーンでひとり静かに堪能したあと、本を開き直す。
隣席は、夜通し飲み歩いた話から話題が変わっていたが、本に集中していてもうあまり聞こえなくなった。


あとがきで著者は、『資本主義の格差と分断から自由になれる隠しコマンド』は『血の通った関係と没頭』だと語る。

似たようなことで傷ついてきた者同士が出会ったり、共通の敵と戦った者同士であったり。そういう絆には経済を超えて強い結びつきがある。そういう絆は何も実生活で繋がりがある人間とのものだけじゃない。自分と同じような傷を持って生きてきた人がしたためた一冊の本かもしれないし、会ったこともない歴史上の人物かもしれない。(中略)ラジオ番組のパーソナリティかもしれない。そういった存在との血の通った関係は、生き辛い道のりを歩く灯火になる。

じゃあ私は、若林さんと血の通った関係なんだ。
若林理論ではそうだと言ってくれてるからそう思うことにした。

私が、なんとなく中学受験したのも、美大の中でも比較的偏差値の高い大学を選んだのも、就職してマトモに働けそうな学科にしたのも、全部資本主義のせいだ。お金があって、仕事ができて、ルックスが良くて、恋人がいないとこの社会では潰される。

この妙な自意識も、生きづらさも、ぜんぶぜんぶ、資本主義で新自由主義の日本の社会のせいだ。
たぶんこれからも、この社会の中でたくさん擦り減らし、何かを得ては何かを失うんだろう。

でももう私は、潰されても平気だ。
だれも私に共感してくれないかもしれないけど、この本はひとりじゃないことを教えてくれた。

そう思えただけで、なんだか少し気が楽になった。

退店


気がつくと、店内は満席になっていた。

くつろぎすぎるのも申し訳なくなってきたので、ポットの紅茶がなくなり本も一区切りついたタイミングで会計を済ませ、店を出た。
店員さんは会計のときも明るかった。私はいつもバイトでどんな顔で接客をしているのだろう。また来たいと思う店はいつも店員さんが親切である。

私はAirPodsのノイズキャンセリングをつけ、澄ました顔で先斗町を後にした。


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