俳句界の新潮流、「アウトロー俳句」がはみ出し者を救う/11月11日ハーバー・ビジネス・オンライン(筆者=櫻井れき 北村土龍)
駐車場雪に土下座の跡残る
これは、屍派家元の北大路翼氏が詠んだ俳句。
「教養は不要。俳句は誰でも詠める」
確かにその通りだと思う。だが、声高にこう言うと眉を顰める人たちもいると聞く。「俳句とは高尚なもの。誰でも気軽にできるものではない」と。そういった人たちにとっては、「死にたい」や「殺したい」といった言葉を俳句にするのはもってのほか。
俳句とは世界で一番短い文学である。基本的に17音しかないものをどう料理するのかが俳句の面白さではあるのだが、俳句を「詠む」ことよりも俳句を「読む」ことが短い文学の最大の面白さなのだ。
一般的な句会は、自分以外の句でいいと思ったものを選び講評する。だからいいと思った部分が主になるのだが、屍派では投句された句をランダムに選んで講評する。だから当然気に入らない句もでてくる。
そこで気になったのが、ダメ出しをされて、落ち込んだり気を悪くしたりする人はいないのだろうか、ということ。
「この句会には充実した人生を送っている人は絶対に来ませんね」
参加者は、依存症やうつ病の患者、ニート、女装家などだそうで、自らが発信した言葉を分かってもらえないと辛いのではないか。
「読む」ことの面白さとは。
必要最小限の言葉しか使われていないため、読み手は作者がどんな思いでこの句を作ったのかを全力で読み取ろうとする。一方、基本的に作り手側は自句自解することはない。読み手がどうとらえたかが全てなのだ。
一見、一方通行のようにも思えるのだが、そうではない。俳句を詠み投句することが発端となり、その句に対して読み手が答える。そうやって会話が行われているのだ。
また屍派では、定型や季語のルールに縛られない自由律俳句もオッケーだそう。ルールに縛られるのも面白さの一つであると思うのだが、縛られず、自由に発言する場があってもいいのかもしれない。
「俳句は心情を吐露して昇華する道具になる」
辛いことや悲しいことも全て俳句の種とし、言葉にすることで気が楽になることがある。そして、この場所には同じような経験を持つ仲間がいる。さらには俳句で繋がった仲間でもあるのだ。
これまで、自らの思いを封じ込めてきた人、だれも自分のことを理解してくれないと思っている人など、俳句を始めてみたらいいかもしれない。先にも述べたが、短い文学なので、最小限の言葉だけで済む。だから多くを語らなければといったプレッシャーもないだろうし、自分のことを語るなんてと照れ臭くもない。
そして、句会に自身の句を出してみることを勧めたい。自分の思いがこもった句であっても、れっきとした作品なのだから、もしダメ出しにあってもそれはあなたをダメ出ししているのではなく、作品に対してのもの。だから心が落ちていくことはないだろう。
もしかしたら、自らの思いを吐露し、その思いを講評という形に変え、真摯に聞いてくれる。そんな居心地のいい場所がある。それだけでいいのかもしれない。
駐車場雪に土下座の跡残る
借金の返済が滞っていたのだろうか、くっきりと土下座した跡が残っている。そこだけ、人の体温で溶けたのだろう、雪が泥と混じって茶色くなっている様は屈辱か。
雪はまだ降っている。あと何時間かすれば土下座跡を消してしまうだろう。まるで何もなかったかのように。そうやって人は忘れたふりして生きていく。
だから眉を顰めないでほしい。俳句とは優れたコミュニケーションツールなのだから。
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