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演劇が演劇でなきゃいけない理由って何?

演劇が演劇たらしめる理由って何だと思いますか?

演劇と言えば、臨場感や気迫など「生だからこそ体験できる価値」というイメージが大きいと思います。
今はNetflixなどの定額ストリーミングサービスを多くの人が利用していて、ベットの上で横になりながらちょいちょいと操作するだけで、プロが作った一流の映画やドラマを見ることができる。
その全ては私たちに「伝わる物語」であって、演劇の1番の特徴である「生の体験」という物を超えてきます。

では、演劇って何を持って演劇と言っているのだろう。
正直、私には答えが出せませんが考えてみました。

演劇は作り手側のエゴなのではないか

私は演劇が好きです。
物心ついた頃から演劇をしていて、演劇の楽しさを知り、ずっと演劇に関わっていたいと思っています。

けれど、「私がやりたい演劇」は「お客様が求めている演劇」なのかと聞かれると素直に頷けません
お客様が求めているのは「感動」や「体験」であり、私たちが提供するのは「夢」や「希望」と呼ばれる類の物だと思ってます。

でもそれって、演劇である必要ある?

もちろん、お客様の中で「演劇が好き」とおっしゃる方もいます。
けれど、エンタメと呼ばれる部類の中で演劇というのはマイナーだし
なんと言っても手間がかかる。
作る手間なんかは他の映画とかドラマと比べちゃあれだけど、見る手間は多分エンタメのなかでトップ争いに食い込める煩雑さだと思う。

「演劇は面白い!」というのは正直演劇の沼にどっぷり浸かってる人が言う言葉で
「劇団四季のユタと不思議な仲間たち見た?」
「えっ何それ……」
という現状が基本なんですよ。
(私はユタと不思議な仲間たちが大好きです。次点でノートルダムの鐘が好きです。日本のトップ劇団である劇団四季がクラウドファンディングを始めているので応援してます……)

今だったら
「愛の不時着見た?」と聞いたら
「何それ知らない」って返答よりも
「見たー!」とか、「名前は聞いたことあるけどどうだった?」って会話が続くと思うんですよ。

それってNetflixとかのサービスで手軽に観れるからだし、なんてったって真夜中でも布団の中で見られる。
そしてそれが面白い。一本見て合わなくても次、次って進んでいける手軽さ。いつでも離脱できる。寝ても迷惑かけない。

物語も面白いし、映像は綺麗だし、綺麗な人達が沢山出てる。そして感動を届けてくれる。たまにツボにハマってTwitterで呟いちゃう。

画面的な美しさや手軽さでNetflixなどに勝てる訳がないんですよ。
そして「演劇は感動を届け夢や希望を与える」ってのなら「映画は感動を届け夢や希望を与える」って言えちゃうんです。ドラマも同じ。小説とかも。

その中で、自分が「演劇」という手法を選んでいることに疑念がよぎるんです。
私は演劇が好きです。人生の2/3捧げるくらいには好き。正直中毒って言われてもおかしくないと思う。

ただ、お客様のことを考えた時絶対に手間が掛からなくて時間が拘束されなくて安い方がいいんですよ。
「物語から感動を届け夢や希望を与える」ってことが目的なら演劇である必要ないじゃん。

もちろん「劇場で観る演劇が大好きだ」とおっしゃるお客様がいるのは知ってます。ありがたい。神。
ただそれも演劇の沼に浸かっている人だからこそ。
沼の住民ではない人には「ただ怠い御遊び」なんですよ、多分。

演劇に固執して、「劇場で!!待ってます!!」みたいなことって、単に作る側のエゴなんじゃないかなって思うんです。(自分もやってるけど)

演劇はチャンネルになればいい

演劇公演を行うゴールは「演劇を観てもらう」ことじゃないです。
ちょっと心が軽くなるとか、夢を見れたとか、感動したとか、考えることができたとか。
そっちがゴールじゃないですか。
演劇公演はそのゴールを達成するための手段に過ぎないんですよね。演劇公演をすることか目的じゃない。

本来のお客様の感情を動かす体験がゴールならば
演劇だけに固執する必要ないと思うんです。

私は私の演劇活動を、
「自分が伝える場として演劇は必要だけど、お客様に物語を伝えるという文脈では演劇である必要がない」
と考えています。

今、Youtubeとかで演劇の基礎みたいなことを発信するチャンネルが増えています。
それはいいことだし必要としている人も多いと思うのですが
テクニック的なことを好きなお客様って少ないと思うんです。
テクニックが必要なのは作り手であって、物語を伝える手段にすぎない。

今、劇団や役者などの作り手に必要なのって
「自分はこんな素敵な物語が届けられますよ、どうかそれを世の中が落ち着いたら体験しにきてくださいね!」
ということだと思うんですよ。

そのために、自分の表現を伝えるチャンネルが必要だと思うんです。
それが生配信でも朗読でもTwitterでもなんでもいいのですが
自分のフィールドである劇場に来てもらうための価値提供をしないといけない。そして価値を認められて初めて、劇場で体験をしてもらえて本来の目的である物語を届けて感情が動く体験をしてもらうことが可能だと思うんです。

そして、最終的に劇場に来てもらいたい(これは演劇に携わる人ならみんなそうだと思う)けど、それも選択肢の一つでありチャンネル。
全てのチャンネルで「自分が提供できる感情が動く体験の価値」を提供しないと「自分頑張ってるんで舞台来てください!絶対楽しいから!」の押し付けになってしまう。

手段と目的を履き違えちゃいけない。
演劇は手段でしかない。

演劇である理由って全然見つけられない

そうこう書いているけれど、演劇という手段を用いる私たちは演劇が大好きだから演劇を使うんですよね。
それは当然のことだし、いきなりミュージシャンが「音楽が嫌いなんです」って言ったらちょっとびっくりする。好きなことで表現したいと願うことは当然のことです。

ただ、自分にマッチした表現という舞台を知ってもらう手段が演劇には必要だと思うんです。
漫画だって広告で見て「好みかも」って思って買う、もしくは元々好きな漫画が連載している雑誌の新連載を見る、友達のおすすめから興味を持つって感じで受動的じゃないですか。

演劇の情報は、残念だけど受動的に手に入りにくい。
そして手に入っても興味を持たれにくい。

私には演劇が必要だけど、お客様には必ずしも演劇である必要がないかもしれない。
なら、今やるべきことは自分の物語の表現価値を伝えることだ、って思うんです。

いただいたお金は!!!全て舞台裏のためのお金にします!!!!殺人鬼もびっくり☆真っ赤っかな帳簿からの脱却を目指して……!!!