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#3.愛媛旅行記『白鷺が誘う、愛と姫の楽園へ 〜大山祇神社〜』

愛媛旅行記の最終回になります!
愛媛県で迎えたお誕生日の朝ーー。前日は“寝た”とは言えないくらい、短く浅い眠りだったかなと思います・・・。スケジュール通りに事を進められるか心配しすぎたせいです(笑)

旅行二日目の目的地は、大山祇神社。
神社があるのは愛媛県今治市の離島 大三島。そこへ向かうには、愛媛県の今治市と広島県の尾道市を結ぶしまなみ海道を渡って行きます。橋がかかる前は、船しか移動手段がなかった訳だからすごく大変だっただろうな〜。

そして、かの有名な村上海賊の本拠地があったのがこの辺りね。村上海賊も大山祇神社に戦勝祈願をしていたそうです。今回の旅の予習として『村上海賊の娘』も読んできたからね。胸アツだよ!

水を繋ぎ、星を紡ぐ
世界平和への祈り
幸せくくり旅 IN 愛媛県
『白鷺が誘う、愛と姫の楽園へ』
〜大山祇神社〜
2022.03.12-13

旅館での朝食

早朝に出発。道後温泉駅から松山市駅へと向かいます!あれだけ人で賑わっていた道後温泉の街もまだ静かです。
松山駅と松山市駅。名前は似てるけど全く別の駅。これだけでも何も知らない観光客は少し混乱する(笑)9時にならないとバスは来ないのに、念のため・・・と、早く駅に着き過ぎちゃいました。バス停のベンチに座り、朝日を浴びながらしばらくぼけーっとしていました。とりあえずバスに乗れればひと安心だからね。

しまなみ海道

松山市駅からせとうちバスの特急便に乗り、山を超え、今治駅を通り過ぎて海沿いへ、瀬戸内海にかかるいくつもの橋を渡って、大三島まで2時間半くらいかかったんじゃないかな。流れる景色の美しいこと!長時間乗っている人のために、途中でトイレ休憩があったのは非常にありがたかった。
去年のお誕生日はあの海の向こう側、広島県を旅していたんです。尾道にも行ったしね。それを考えるとなんだか不思議な気分になるな〜。

大山祇神社

❖ 大山祇神社とは・・・?

御祭神
❖ 大山積神

大山祇神社の歴史
大山祇神社社殿後方には【鷲ヶ頭山-わしがとうさん】【安神山-あんじんさん】【小見山-おみやま】の三山が見える。本殿が再建された頃作られたとされる大山祇神社古図(国指定重要文化財)には、御本社・上津社・下津社の神体山として描かれている。
島内最高峰(436.5m)の鷲ヶ頭山は古くは神野山ごうやさんと呼ばれ、現在でも頂上西側一帯は神野の地名を残している。安神山は毎年1月7日の生土祭に用いる赤土を山麓にて拝戴する。小見山は「お宮の山」が変化したものとされ、いずれも大山祇神社との深い関係を伝えている。
また、大山祇神社御本殿の御扉は内開きとなっており、通常外開きの様であることを考えると極めて珍しいものと言える。これは過去に社殿後方の三山を御神体として拝していた故に御扉を押し開く様にしたのではないかと推測される。
当宮の例祭日は旧暦の4月22日と定められているが、これは養老3年(719年)4月22日、現在の地(大三島町宮浦)に遷座された佳日によるものである。それ以前は大三島南東部にあたる瀬戸(上浦町瀬戸)に祀られていたとされる。
当宮の記録によれば瀬戸の地の社は【横殿宮-よこどののみや】と呼ばれ、大山祇神社または三島宮とは呼ばれていない。何故「横殿」なのか。「横」には「わき」「かたわら」「そば」などの意がある。つまり「横殿」は、主体があって、その「わき」「かたわら」に建てられたものと考えられる。
具体的には小千命おちのみことによって勧請鎮祭された当時よりこの地、大三島宮浦に大山祇神社社殿があり、何らかの理由によって仮の社殿が建てられた。それが「横殿宮」ではなかろうか。これ以前の記録が残されていないため推測の域を出ないが、そう考えるのが極めて自然である。因みに、「横殿宮」即ち「瀬戸」の地からは、かつての神体山である三山を望むことはできない。

大山祇神社 公式サイト
総門

伊予国の一宮。この神社もまた、長い間、参拝を心待ちにしていた神社のひとつ。大山祇神社に御縁を感じるようになったのはもう何年も前だけど、とある友人に「あなたの過去世は愛媛県に関係があると思う」そう言われてからかもしれない。その頃のわたしは瀬織津姫についてよく調べていて、色々なものがここへと繋がっていったのだと思う。

雨乞いの楠
乎知命御手植の楠

境内には約二百本もの楠が植えられている。総門をくぐると目前に現れるのが、神社のシンボル的な存在でもあるこちらの楠。乎知命おちのみことが植えたとされる大木が御神木として祀られている。周囲に大きく広げた腕のような枝、年老いた幹は美しく深い味わい、生命の息吹を感じずにはいられないでしょう、圧巻。樹齢は約2600年といわれていて、一緒に写真を撮ると長生きできるのだとか。

拝殿

大山積神は、別名として和多志大神わたしのおおかみ・三島大明神とも呼ばれており、伊弉諾尊と伊弉冉尊の子で、磐長姫と木花咲耶姫の父でもある。
もともとは山の神ですが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の神としても信仰されています。
大山祇神社が鎮座するここ大三島は、古くは『御島』と記され神の島とされていました。
大山祇神社は、全国にある三島神社、大山祇神社の総本社であり、更には日本総鎮守でもある。守備範囲がめーっちゃ広い(笑)

御朱印

御朱印をいただきました!
素晴らしい神社ではありましたが、ここのエネルギーはまだ解放されきっていない感じがしました。いつから? あの時から? 微睡みの中で・・・呼吸が止まっているかのような感覚。本当の力はまだまだこんなもんじゃないでしょう。
有名な神社ですから、もちろん参拝客もたくさんいたけど、初めてここへ来てそう感じてしまいました。過去世が関係しているから、かもわかりませんが。

そして不覚にも・・・この時、奥の院の存在があることを知らず、参拝することが出来ませんでした。大山祇神社のことは随分前から知っていたし、神社に関する記事も色々と見ていたはずなのに、奥の院の情報だけ目にする機会が一度もなかった。
・・・ということはそういう事だろうね。だからまたいつか、ここへ来ることになるのかもしれません。お志事は一度では終わらないということ、結構深い感じがしたもんな。通うにしては遠いんだけどねー(笑)

宝物館

全国の国宝・国の重要文化財の指定を受けた武具類の約8割が、ここ大山祇神社宝物館に保存展示されています。甲冑の保存は全国一で、日本最古の平安中期の鎧をはじめ、鎌倉期~戦国時代まで各時代の代表する名品が展示されています。故に、当地大三島は「国宝の島」とよばれています。

大山祇神社 公式サイト
拝観券

大山祇神社の宝物館はとにかくすごいらしい。紫陽殿、国宝殿、大三島海事博物館の三館があります。
実はわたし、これだけ神社仏閣を参拝していても、宝物館まで拝観することはかなり稀なことです。歴史的価値の高い武具がたくさんあるということなんですが、そもそも武具にはあまり興味はありません。カッコイイとは思うけど。

それでも今回はどうしても見ておきたいものがありました。それは、日本で唯一現存する女性用の鎧だという『紺糸裾素懸威胴丸』です。これを実際に着用して戦ったといわれている女武将がいます。戦国時代の伊予国。18歳という若さで水軍を率いて戦い、大三島を守り抜いたとされる瀬戸内のジャンヌ・ダルク。

宝物館の感想としましては。
確かに展示物はすごかったんだけど・・・!わたしには武具のエネルギーが強烈で怖すぎたと言えばよいのか、館内に充満する異様な空気にビビりまくり、ゆっくり見るなんてことは出来ずに広い館内を足早に進み、紺糸裾素懸威胴丸を探し回りました(笑)
これは予想してなかった。考えれば当たり前のことなんだけど、武具を作った職人の魂、武具を使用した者やそれによって命を落としたであろう者たちの怨念、そして神社に奉納されたことにより宿った霊力・・・とまあ、それらが混ざりあった空間には耐えられませんでした。いま思い出すだけでもゾワッとしちゃう。

で、宝物殿で紺糸裾素懸威胴丸を発見し、それから受け取れる波動があるかもしれないので、これだけは!とがんばって見て来ました。確かに胸の辺りが少し広く膨らみがあり、ウエストは他の鎧と比べてもほっそり絞られているように見える。確証はないみたいだけど、これが女性用だったと言われるのも納得。このような甲冑はただ一つしか存在しないそうです。その奥にも鎧がたくさん並んでいましたが、怖くてUターンしてしまった(笑)

鶴姫公園

大山祇神社の関連スポットとして向かったのは、神社からも歩いて行ける鶴姫公園です。
この鶴姫という人物が、宝物館に展示されていた紺糸裾素懸威胴丸を実際に着用し戦ったとされる女武将『大祝鶴』なのです!

大祝鶴姫の像

「われこそは、三島大明神の使いなり!」
瀬戸内のジャンヌ・ダルクと語り継がれる鶴姫は、大山祇神社の大祝職の娘として生まれたとあります。彼女が存在したという証拠はなく、伝説として語られてはいるものの、わたしにはどうしても鶴姫がただの架空の人物だとは思えない。物語とまったく同じでなかったにしても、彼女と似たような境遇で生きた人物が実際にいたのではないかと思いを馳せる。

鶴姫伝説は以下の通りーー。

大山祇神社の社家である大祝氏は、伊予の豪族・越智氏の後裔であり、さらに伊予一帯を支配する河野氏の同族である。それ故に、神職でありながら水軍の統括者として戦にも関与するという立場であった。ただ立場上、陣代という形で一族の者を戦場に送り出す慣わしであったという。
戦国の世になって、瀬戸内では周防の太守・大内氏が台頭、次第に河野氏の所領にも侵攻を始めた。天文10年(1541年)、大祝安舎の代に大内氏が攻め入った時、陣代となった次兄の安房は討死したため、再度の大内氏侵攻の際には妹の鶴姫が陣代となって戦闘に参加、見事に撃退したのである。この鶴姫が、上の甲冑を着用したとされる人物である。
天文12年(1543年)、大内氏はさらに強力に侵攻を進め、主力の陶高房を主将として攻め込む。鶴姫は再度陣代として出陣するが、思い人であった越智安成が討死する。一旦兵を引いた鶴姫であるが、早舟による急襲をおこない、大内軍を敗走させることに成功する。しかし鶴姫はこの戦いの最中に行方知れずになったとも、戦いの後に思い人の死を嘆き入水自殺したとも伝えられる。18歳であった。

日本伝承大鑑
越智安成の像

鶴姫像の向かい側、姫に向かって手を伸ばすのは恋人の越智安成。誠実で賢そうなイケメンでした。

織姫と彦星のように離れ離れになってしまった二人。見つめ合う視線の間に川は流れていませんでしたが、こう見ると結構距離がありますね。写真と動画を撮るために二人の間を何度も往復しちゃったよ。なんだか、仲を取り持つキューピッドになった気分だった(笑)

大山祇神社のすぐ横の鶴姫ロードにも鶴姫の像がありました。公園の方がお顔は可愛いな(笑)

神島まんじゅう

大山祇神社の目の前にある村上井盛堂で、お土産に名物の神島まんじゅうをゲット〜🖤 お饅頭に大山祇神社の神紋が入ってます。中身は白餡で甘すぎずさっぱりしてて美味しいよ。

「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」

鶴姫の手には、想いが込められた鈴がかけられていました。18歳の少女がよ、神様に奉仕する家に生まれたお姫様にも関わらず、船上で剣を取り、故郷を攻めてくる男達と戦い、戦で恋人を失って、悲しみにくれた彼女は自ら海に入り命を絶つことを選んだ・・・そんな、考えただけでどうよ。
鶴姫は『村上海賊の娘』にも登場するんだよ。主人公 きょうの憧れの存在としてね。
わたしも鶴姫に会いたかったから。こうして会いに来られて本当によかった。しかしながら、彼女に関わるものを昇華させるには課題が多そうだな。

今回は、わたしの魂や過去世のルーツを探る旅でもありました。まだまだ収穫しきれてはいないけれども、去年は広島県で今年は愛媛県で、お誕生日を過ごして思ったことは。
「瀬戸内、さいっこう!!」将来は田舎に住みたいと思ってるけど、愛媛を含め瀬戸内近辺は有力候補かも。来年のお誕生日には小豆島に行きたいな〜なんて考え中。ありがとう、愛媛!また会う日まで🖤

幸せくくり旅 IN 愛媛県
『白鷺が誘う、愛と姫の楽園へ』

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