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深刻になり過ぎないことも大事なこと。

ついつい教え子の人生の中で、なんとか自分が役立ちたいとばかりに、どうすればその子のためになるか・・・?ということを突き詰めて考えてしまいがちだし、それは卒業してスタッフになった卒業生にも変わらない傾向である。

私は昔から過保護目なところがあるかもしれない。

自分で、世間の荒波にもまれることの大切さを、我が子を育てるためには、十分に実感し、いつまで生きておられるかわからない私たち親がいついなくなっても大丈夫なように育てることが責務であることを実感していた。

だから、人様からの苦労をさせて、正直かわいそうに思うことがなかったわけではないけれど、それでも我が子に対しては、いつも、乗り越える力があることを信じて疑わなかった。

結構激しいいじめがあったときも、まだ、私たちが手を出すべき時ではないと判断し、むしろ尊厳を傷つけないように、いじめられている側としての、みじめさを味わうよりも、誰にでも起こることとして、今、このときに乗り越えておくべきこととして、そっと見守り、支えた。

効を奏したようで、本人の口から耳にしてから、一週間で治まったときには、本当にホッとした。その後、本人の担任の先生からご報告を受けたときに、私が思っていたよりも、結構大変なことのようだった。

立派に乗り越えた経験をした娘。

かつていじめられた、と思い、それをトラウマ、という形で、どうしても逃れられなくなることもあるだろう。

けど、その経験をもしも乗り越えることができたなら、そして、その経験をどこかで役に立てることができたなら、笑い飛ばせる日が来たら、どれほど幸せなことだろうか・・・。

先日、生徒ではないけれど、若者から、かつてのいじめの件を聴いた。人生の先輩として、まあ、いじめられた、と表現すればできなくもない経験もたくさんしてきた自分が語ったことに対して、

軽くそういうことありますよ・・・。

と返された。

まるで、絶対に自分のした経験の方が、大変で、一方被害者である、と言わんばかりに即座に言い返された。もう少し真剣に聴いてくれてもいいんじゃないかなあ・・・。私、こうやって、あなたとお食事しながら、時間も取ってるし、それなりにごちそうもしているつもりなんだけど。元気になってほしくて・・・。と正直悲しくなった。

べつに、その人の過去の経験への解釈を、否定する気はない。

ただ、気にしていたら、その捉われた分だけ、相手の思うつぼ(というより、相手は覚えてもいないだろうし。)、捉われずに、どうすれば脱皮できるか考えて工夫する方が気が利いているというものだろう。

そうやって苦悩している若者に、手を差し伸べるか、それとも荒波を自分で乗り切るほうがいいのか?サポートを必要としているのか?それは親御さんのされるべきことなのか?などなど私は考えた。

ただ、怖いのは、自分がされたことを、もっと弱者に、連鎖的に自分がしてしまうということだ。

自分が一方的に正しいと思っているうちには、あまり解決の道は見いだせない。

何ができるのか?その現状に対して、どう対処できるのか?

自分は何もしないで、声も上げないで、そこにとどまっているのなら、そのままになる。

ちゃんと自分を大切にしないと。

しかるべき治療を受けてもいいし、カウンセリングを受ける方法もある。

でも、私が見る限り、そういう性質のものではなくて、考え方の枠組みの問題のような気がしていた。

何を言ってもぐるぐるぐるぐる、自分を正当化する話が延々続く。

正直こちらも疲れてくる。

ちょっと自分のことではなくて、人様のために役立つ方向に考えてみたらどうかな・・・?と思った。

人のことを考えていたら、時折自分の悩みがどこかに行っていた・・・、という経験を何度もしてきたから。

そうそう簡単ではない・・・、と叱られそうではあるけれど。

まずは私が深刻になり過ぎず、この件をもう少し明るくとらえてみようと思っている。


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