見出し画像

窓になっていただいていた人の存在

何年もの間、それこそしょっちゅう顔を合わせていた人と、最近全然会っていない。
私が会いに行かなければ会わないはずの人で、まあ、道であったりすれば別だけれど、それでも自分の生活圏内に入ってくる人ではない。

正直その人の存在が面倒で(不倫していたとか愛人だったとかいうような話ではない。残念ながら?(笑))、なんとかその人と離れようとしたこと多数。
とうとうその時が来たのだろうか?いやその時を迎えることができたのだろうか?

無用にしっかり対されているようで、私は面映ゆく、一方でそれなりの自尊心もなくはなく、そもそもお付き合いするような人でない(いや、お付き合いしてないけど?)などと思い詰めていた。
もっと言うなら、その当時の自分がみじめで情けなくて、昔誇りにし、思い切り大事にしていた仕事もはく奪されて、思い切り虐げられていた頃のことである。
この表現凄いなあ・・・。

これは対外的にはそうではなくて、それこそ奥様扱いされていたのだけれど、この、奥様オンリーとたかが非常勤でしか働いていなくて、家では先生の顔をしてはいけなくて、もう私のアイデンティティーは無茶苦茶であった。この、奥様という表現の複雑性となんとかしていただけないものか・・・?
要するに婚家で私の仕事の話などできない。おくびにも出せない。
それでいて、その学校出身の妹さんには、同窓生に吹聴される始末。
要するに自分のとこの嫁は、自分の母校の先生、というわけである。

この複雑性に絡んでか、私は、当時、大学時代に話題になっていた、マルグリット・デュラス原作の『愛人』の映画版にハマり、その女主人公である、ジーン・マ―チではなく、中国人役のレオン・カーフェイにハマってしまった。それ以降、私は、日本で手に入るだろう、レオン・カーフェイの作品はたいてい見た。その中でも、リー・ハンシャン監督の『火竜』は大好きだった。

フランス人だけれどお金のない美しい少女と、華僑で、とんでもなくお金持ちだけれど中国人である青年との恋愛。少女は恋愛として始まったのではないが、その切なさの中で間違いなくその中国人を愛するに至る。
性的描写が凄くて、でも、そういう意味ではなく、とんでもなく美しい作品である。情緒があって、人間の切なさのすべてが内包されていて、どうやっても結ばれることのない二人の本当にひとときの恋愛。

この二人、どうしたって対等にはなれない。
互いに相手のもっていないものをもっていて、相手がもっているものはもっていない。
こういう男女って存在するのだと思う。
中国人の男性の結婚式にまで行ってしまう彼女は何を感じていたのだろうか?そのときにもフランス人であることの優位性を感じておられたのだろうか?彼は、あの中国人としてずっと存在し得ていたのだろうか?
彼女の中の自己の相手への優位性と、認めたくはないなんとも言えないみじめさが、同時に伝わってくる。
インドシナから母国フランスに帰るための船の中で、ソナタ月光を聴きながら、彼女は、間違いなく彼を愛していたのだと悟る。その場面が、なんとも言えない。

一方、レオン・カーフェイ演じる華僑でおしゃれな中国人の方は、出会った頃からずっと彼女を愛している。ある意味こちらの方がなんとも単純に彼女を愛している。でも、変な境遇の優位性のために、彼は彼女とは一緒になれない。

彼女の、このなんとも複雑な心情が、当時の私には響いた。

周りからはなぜか悪くない立場にいる。
でも内情はボロボロ。
外では先生であっても、家にあっては、家族のカースト制度の永遠最下位。
よそでは、

奥様がいらっしゃいました・・・。

と言われて、心の中で、ケッ!?と舌を出していた。
何が奥様?奥様より先生の方がいいわ!
第一、使われはしても、主張、エッ!?主張まで言わない。何にも言わせてくれないではないか。嫁たるもの、言うこと聞いてなんぼである。

私が誰かを言うこと聞かす、という発想がないからか、まるで人権思想をもたないように育ててきたはずだった(そんなものを教えたら、どの道墓穴を掘ることになるので。)のに、ある日息子が、いきなりリビングで語り出したときには、唖然とした。

ばあちゃんは、母さんが言うこと聞かんと言う。母さんが、じいちゃんの葬式する前ならわかる(直前に、こちらのやり方で、私が舅のお葬式の裏方をやった。夫は当然喪主だったから、気が張っていた。)。でも、葬式やってからはおかしい。第一、人が人に言うこと聞かん、というのは命令やぜ!人が人に命令するかー!?

と言い出した。
あーら、なんてご立派な人権意識。
だれや、そんなもん、こいつに教えたのは・・・。

いや、違う。私じゃない。私は、子どもたちに、人権意識など語っていない。と心の中で言い訳する。

奥様だなんて言われて、うまいこと使われているというのが、現況だったから。

それにしても、息子の考え方の健康さよ・・・。
これはやはり地方の長男?いや、長男は違うか。もっと横暴?

いったい誰がこんなまともなこと言うようにしたのかわからない。
かと言って、奴が女性に対して、どう出るか、私は彼が男性である以上、彼を心底信じ切ることはできない。

ともあれ、私は、その、気弱く、優しく、でも愛する女を諦められなかった中国人は、全然好みの男性ではなかったのに、その男性というよりは、レオン・カーフェイに魅了された。

その後、レオン・カーフェイが、ハンシャン監督の娘と友人関係にあり、その縁で監督に出会い、火竜の主役を射止めたことを知った。

そこまではいい。そこまでは許す。
ところがところが、ハンシャン監督の娘と結婚し、双子の娘とめちゃくちゃ仲良く暮らしている、というところで、とんでもなく裏切られた気分になった。

夫は、周りに、私がレオン・カーフェイが結婚していて、ショックを受けていることを笑い話にして話していた。

全然方向性は違うけれど、友人なり知り合いなり、何らかの人間関係を取り結ぶとき、とのときの自分への意識が大いに関係すると思う。

今思えば、その当時、私は大方すべての自信を失わされ、できない嫁、器量の悪い嫁、といつも言われながら、一方、外では先生として自分の仕事をしていたのだろう。その複雑さに、私は疲弊しつつ、でも子どもたちに関わる楽しいことをし、自分の仕事だけはしっかりしていた。

遊びに来た友人には、

あの家行ったら、呼べないくらいきれい。

と言われる程度には片付けていたのに、家事をしない嫁とまで言われた。
それはとんでもなく忙しいときに、手が回らなくなることくらいある。今だってある。誰かに手伝ってもらうなり、補完してもらうサービスを使うなりすればいい。でも、それはできないということにするために使われた。

子育て時代が一番大変だった。
アイデンティティ的にも。
心が混乱していたから、しょっちゅう肩を凝らせて、いきなりガンガンガンガンと頭痛がして、吐きまでした。

それが最近、自分の教室をもって、自分のやり方でできるようになって、受験期の疲れには気づくが、それ以外、そこまでなったことなどない。

私も極端かもしれないし、いろいろお聞きして見て、女性(男性は聞いていないだけだと思われる。)は多かれ少なかれ、そういう、理不尽な思いをされているように思う。
女に三界なし、という言葉の意味も、友人たちの話も相まって、何気にリアルに響いたりする。

だから、最近、若い世代が、育児なり、家庭のことなりに、共にしようとする意識をお持ちなのを見聞きするたび、私たちの世代が楽しくなさそうで、婚姻率が下がっているのか?と暗澹たる思いをする一方で、もしかしたら、私たちの苦労も甲斐があったのかもしれないとも思う。

大変だった若いころのすべてを見てくださってきた方を、ある方は、

ああ、あなたにとっては世界との窓やねんやろねえ・・・。

と表現された方がいらした。

地方に行って、話すことができる人。まるで部屋に外界との窓があって、そこから外を観察できる人。

確かに。
私は何かあるとよく会いに行っていた。
最近は、話し過ぎたなあ・・・、と反省もし、そして話を聞きすぎた、と逆に反省もしている。

ただ、対等になりたかった。
何で?と言われたらなんとも答えにくくて仕方がないのだけれど。

文学賞を取ったら対等になれる?と考えた。
その人と対等って、どうしたら対等かもわからなかった。

そして、その対等について、いつしか全く考えなくなっていた。
そしたら、会いに行かなくてもよくなっていた。
嘘みたいに、憑き物が落ちたみたいに。

そして、別に出張に行くようになったとかそういうのではなくて、私は今ここにいながら、ちゃんと外の世界ともつながっている。
別に窓がなくとも、生きて行けるし、それほどこの土地に馴染んでしまったし、そうでなくてもちゃんと外界ともつながっている。

マルグリット・デュラスは、作家として大成した。
映画の中では、ある日中国人から電話が掛かって来て、

今でもあなたを愛している。

と伝える。

二人のその間にあった時間の隔たりを越えて、愛していると表現するほどに思いがストレートな中国人の男。

そして、その間にいくつかの結婚と離婚を繰り返した彼女は、今の方がいい顔をしていると言われるけれど、その間にどれほどの思いがあったのだろうか?作家はとんでもない経験があり、とんでもない葛藤や精神的苦悩を言わば商売道具にして生きているものだと思うが、それにしても、この二人の人生を並べて見てみたいと思う。

残念ながら、そういう色恋ではないけれど、そして、おそらくはこの二人よりは互いの人生をよく知っていて、ふん!とか思っていそうだけれど、とりあえず、今のところ窓になっていた人から卒業した気分でいる。

本当に必要な人ならまたどこかでお世話になることだろう。
ただただ、今だけかもしれないけれど、今のところその窓を必要としなくなった自分をちょっとだけ褒めてやりたい気分ではいる。

○○年前の明日、娘が生まれて、その娘の存在に人生を掛けてきたほどの大事な娘と出会った日を前にして。


もしもサポートしていただけましたら、そのお金は文章を書いて人の役に立つための経験に使います。よろしくお願いいたします。この文章はサポートについて何も知らなかった私に、知らないうちにサポートしてくださった方のおかげで書いています。