好きと嫌い
なんだか、好きも嫌いも理由があるようで、自分がおもしろくない。
人間なんだから、理由なく、とんでもなく好きになったり、嫌いになったりしてみたい。
私の場合、〇〇だから、好き、〇〇だから、嫌い、という根拠がある。相手に非がないのに、自分の都合で好き、嫌いをあまりしない。
考えてみたら、食事や飲み会も、この人とだったら、〇〇、というのもあまりない。ただ、育ってくれた卒業生がスタッフになってくれて、食事を一緒にしていて、なんともほのぼのすることはある。今日、弟子のUが、私の文章をチェックしてくれている様子が、横で見ていて、なんともほのぼの嬉しかった。
強いて言えば、相手が、私といる時間を楽しんで、いや、寛いでくれていて、こころがあり通う瞬間、とても嬉しいかもしれない。
もし、人生で後悔していることがあるとしたら、相手が振り向いてくれなくても、悲しい想いをしても、好きだ、なんていうくらい、誰かを熱烈に好きになってみたかったし、ものすごくやきもちを焼くほど、誰かを愛してみたかった。たぶん、三角関係なんかに巻き込まれたら、さっさと逃げるタイプだったろうな、と昨日、ある人と話していた。
だいたい、好きになられて、その気持ちに応えなきゃ、みたいに恋愛したり、結婚したりするから、ダメなんだよな。その点で言うと、国語は、相思相愛の相手だなあ。
それから、たった一つ、三角関係がある。相手は変わるけど、実家の母を取り合いしてきたような。そのときそのときで、三角関係の相手は変わるけど。
漱石の、『彼岸過ぎまで』の中の、須永という人物の、自分は、人並みに人間でありたいから、人並みに嫉妬の感情をもちたい、などという表現があったけど、ライバルが現れて、やっとやきもちめいた気持ちになって、その気持ちの、嫉妬としての正当性を認められずに、自意識の自縄自縛が始まるのだけれど、あの、嫉妬の正当性を気にする感じ、つまりはまともな嫉妬を感じたい気持ちが、なんとなくわかる。
頭で、相手がおもしろくないだろうことはわかっても、実感のないことは、追いつかない。できないことは、さっさと努力!みたいな方向にしかいかない。
先日、心理学的な方面の、何かを読んでいた。イケメン好きな人は、自分の容姿に自信がないからだそうである。
私は、イケメンにときめかない。何かとからかう材料にするだけ。では、私は、自分の容姿に自信があることになってしまうではないか!?そんなバカな!
私は、ただ一つ怒る対象がある。自分の仕事を邪魔されたら怒る💢
特に、国語に絡むと烈火の如く怒る。そうか。嫉妬するほどの恋人は、国語科教育か・・・。
いやいや、愛して止まない人は2人ほど・・・。
先日、映画を観ていて、ああ、この関係性が好きなんだ、と思った。仕事での結びつき。信頼、尊敬。素敵だったなあ。
ちょっと違うけど、絶対的結びつきの人、っている。何があっても、味方してくれるだろう人。今まで裏切ったことのない人。
私は、精神的な結びつきが好きだ。
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