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決断―自分で決めたこと

 今日、正確には昨日、私は、ある決断を二つした。

 一つは、本当は違う、けど、感覚的に、どうしてもそうだな、という決断。周りは、はっきりさせろ!説ばかり。つまりは、相手にしっかり言わなくちゃ!というけど、確かにそれは、正しいんだけど、逃げているのでもなく、別に面倒だから、という理由でもなくて、もっと違う面から、私は行動しないことにした。こともあろうに、関係者でもある先生の音声ワークを聴いていて、はっきり心が決まった。

 もう一つは、もう少し、込み入っている。ゴールデンウイーク頃から、もしかしたら、そうなるかな・・・、と考えていた件である。ある意味準備もしていた。これは、教師として、経営者としての判断。決して辛くなくもない判断だった。今までの、情に流されやすい面をもった私なら、なんとか続行という決断をしただろうけれど、あまりにも周りに影響があったり、この後、自分の仕事に影響が出るな、という予感をもっていたので、仕方がなかった。止めることにした。心のどこかに、その予感がどっかりと居座っていた。

 でも、はっきりさせて、私の心はすっきりした。

 あとは、関係者ご本人のお力にお任せするしかない。私は私のできることを精一杯やったし、きっとこれ以上話したら、平行線か、ますますこんがらがるだろう。

 そういうとき、私は、ある種の降りる癖をもっている。

 どちらかが感情的になっているときに、両方が感情的にならないように、いったん降りる。その議論から。あるいは取り組みから。

 一層複雑になるのを避けて、ときにはさっさと謝って、いや、それはもちろん自分の分だけ謝るわけで、例えば1対9で相手が悪かったら、1謝るし、3対7でも謝る。あとは相手の問題だと思うから。

 それぞれの人生を生きているのだから、あとはご自分で責任を取ってもらうしかない。私は私の分の責任を負う。

 どの道、それぞれのした行い、って、良くも悪くも、それぞれに降りかかってくるから、わざわざ親切に、それを正しに行くほどの労力をなぜ掛けなければならないのだろう・・・?と思うのだけれど、間違ってるかなあ・・・?

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