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受験に人格が関わるのなんて、当たり前の事実じゃん!何をいまさら・・・。

さっき、何かの記事で、「ドラゴン桜」の中で、受験には人格が大いに関わるということが書かれているのを読んだ。

そんなこと自明の理であって、勉強すること自体が大変なのではなくて、所詮、自分の心とどう闘う?というところに行きつくのである。
とはいえ、そこが一番伝わりにくいところ。
受験生ともっていて、玄関を入るなり、目の前で指導を受けている別の生徒の様子に、

キッ!

となる生徒がいる。
それを見て、まだまだ仕上がってないなと思う。

だいたい人のことが見えている間は自分の手元がお留守である。
誰かのやり方を自分がやってみて、それがうまくいくということもあまりない。
教科へのアプローチの仕方はそれぞれである。
得意な科目も違えば、暗記が好きな生徒も、思考するのが得意な生徒もいる。
教師が手を掛けなければうまく進まない生徒もいれば、あまり手を掛けられると調子が悪くなるタイプもいる。

ただ一つ言えるのは、それぞれに自分との闘いだということである。

人にオープンになれないと良くない。

そういえば、私は高校の数学の先生に、

わからなんところを聞きにおいで・・・。

と言われても、正直そんな時間がなかった。

高二までは、勉強している暇などなかった。
部活に集中。
だから高三になったら切り替えて勉強するつもりだった。
高二では数学の先生に追い掛け回されていたが、高三になると、数学は得点源になった。(笑)
高二までは、数学科で「あの有名な○○」になっていたらしい。
ちなみに数学科に進まれ、数学の先生になられた先輩は、数学は下から五番目、物理は上から三番目だったという話で、先輩たちからの武勇伝には事欠かないが、結構自分は大いにやらかしていた。(笑)
ひどい人になると、授業に出ない人もいた。
まるで大学ではないか。
とはいえ、そういうことを温かく見守ってくれるところがあったことを今になって思い知る。

受験勉強を始めると質問だってしていた。
それに・・・。
今になって各種セミナーに行くと、恥ずかしいという気持ちのかけらもないのか、私はどこに行っても疑問を解決したくて、すぐに手を挙げて質問してしまう。
間違っても目立ちたいわけではない。
単純に知らないことを知りたいだけである。

若い頃には羞恥心などもあり、なかなかそういうことはできなかったが、年を重ねるにしたがって、目立とうがおとなしくしていようが、あるいは非難されようが笑われようが、何があっても自分の人生を誰かが責任を取ってくれることはないということに気づいてから、私は誰かに何かを思われるのが怖くて、何かをしないという選択をしたりはできなくなった。
それに子育て時代の思い出から、うまくいったら認められるということを知っていたからである。

生徒たちの心と私自身が闘うこともある。
ああ、のたうっているなあ・・・、と思うこともある。
一番嫌なのは、そういうありかたをしていては、うまくいかないということを、私が一生懸命に手助けするときである。
良くないことをするのに、それを加速するようなことをしなければならないときに、私は悩む。
これって良くないことなんだけどなあ・・・、と。

それに、生徒にも保護者にもあるが、あることの情報を得たくて(たいていは生徒の様子という意味なんだけど。)、ちょっと相談すると、先日など、

ぼくはチェリーで結構影響力がある方だと思うんですよね・・・。

と言い出す生徒がいて、呆れた。

ある生徒のことで、そちらのご家庭をよく知っておられた方に、どうしても必要な情報があり、ちょっとお伺いしただけで、次に教室に来られた時には親子でいつもより尊大な雰囲気で来られた時には驚いた。

そんなに誰かに相談されることが少ないのか?
相談というよりは、こちらとしては、あることについての情報が知りたかっただけである。

頭の中は???

そのことについて、この記事に面白いことが書かれていた。

自分のことを優秀だと思っている奴は伸びない。

というくだりである。

美人が自分のことを美人だと思ってしまったらそこでその人の美しさは止まるように、自分のことを優秀だなんて思ってしまったらそこで伸びは止まる。

だいたい優秀って何よ?
どこまで行ったら優秀なわけ?

東大?
東大に行ったら、上には上がいるということを知るだけだろう。
本当に優秀な東大生は、きっと自分のことを優秀だとは思わないだろうし、おそらく優秀扱いに辟易して、自分を見てくれよー、と思っていることだろう。

優秀だと思ってしまったら、そこで成長は止まるだろう。
何かの専門家がいたとして、その人はほかの専門では素人だったりするだろう。
相手が専門だと思っている分野に関して、上から目線で語るなど言語道断であるにせよ、専門家は自分のことをまだまだだと思っているだろうし、またそういうものだと思う。

それをぬけぬけと、何の受験も突破できてもいないのに、あれこれ語る。

なんで東大と京大を並べて語るん?全然違うやん。

と言ってのける生徒に(私がそういう発言をしたというわけではない。)、

じゃあ、今のあなたが合格するのはどこよ・・・?

と言いたい気持ち満々である。

そういえば、母校の人たちは相当に謙虚であった。
ここが地方だからだろうか?

今考えてみたら偏差値的にどう考えても受験しないであろう大学について、

あそこの大学って、勉強もせなあかんし、実技もせなあかんから、めちゃくちゃ優秀やねんてなあ・・・。

と平気で言っていた。

付き合っている彼女が、滑り止めの大学を合格して、自分は軽く合格するだろうに、

ああ、これでぼくは絶対に落ちられない・・・。

と言った人も知っている。

本当に優秀な人って、そういうものだ。
偏差値が届いていても、入れていただけるかどうかは別物だということを知っている。

それなりに難関大をお出になった方には、それなりの敬意を払っておくのがマナーというものだろう。
でもそれだけ。
仕事ができるかどうかというのはまた別の問題で、それは総合力なので、高校生の段階で何かを語れるほどのものは何もない。
まして、合格していもいない大学について、あれこれ言うなんて。


相談をされるということに慣れていないとそうなるのか?と思った時、もしも仮に、自分が全く違うところで相談されたとしたら、私ならちょっと怖くなるだろうと思う。
自分が答えていいのか?あるいは答えたことが本当なのだろうか?

夫の会社の人から全くイレギュラーに電話が掛かってきて、

あれ、どうなってるの?

と聞かれて、

あくまで私が思うにはですよ・・・。

と言いながら自分のものの見方を話していた時、その会社出身の方が多い集合住宅のことをいったい何を自分が言えるのか?とちょっとこれでいいんかいな?という思いで話していた。
夫に相談すれば、また違う方向からチェックが入る。

また、相談される相手が、社会で、なにがしかの影響力をおもちの方だと、なおさらそれでいいのかと思い悩みもし、でも、おそらくそんな方が、私ごときが言ったことなど、そうそう影響されるほどのこともないだろうと、逆に自分を慰めもした。

ただただ言える。
語学学習にしたって、ピアノにしたって、お料理にしたって、仕事や(これは結構不遜な発言をしてはいるが。)家事についても、もうほんっと、できるなどと思ってしまっては進歩がない。

比較的知っている、程度ならまだまだ先がある。
この点、私に甘い母が今側にいて、私に厳しい人が、今遠くにいるので、成長の度合いとしてはどうだろうか?と思ってみたりする。

どうも成長という点においてドMの気があるようで、嫌な思いはしても、身近に、厳しいことを言ってくれる人がいると、サボらずに努力し続けることができるようで、この年になり、あまり周りから注意されない状況になるのはちょっと寂しい。
若さを羨ましく思うことはそうそうないけれど、その一点においてだけは、もしかしたら私は若さに憧れるかもしれない。

痛くて、カッコ悪くて、だから周りにあれこれ思われて、もしかしたら厳しいことも言ってもらえるって、だからこそ成長があるわけで、素敵なことなのかもしれないなあ。

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