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本当にそうですね!

人を正そうとしてしまうのことって、ありがちなことだと思います。

そして、自分をも正そうとしてしまう。

白黒はっきりどちらが正しいかということをはっきりさせようとするというような・・・。

どっちかが一方的に正しくて、どちらかが一方的に悪いことって、確かにあんまりないんじゃないかなあ、と思います。

でも、どう考えても○○だよなあ・・・、と思うこともあります。

最近、価値観の多様化、ということがあって、ある意味楽に、ある意味しんどくなってきていると思います。自由であることは、それぞれだ、ということはそれはそれで大変なことだから。

何かこれ、という芯をもつことは素敵なことだと思います。信念でもいいし、信条でもいい。

でも、それを人に押し付けるのもどうかと思う出来事があったりします。

誰かとぶつかりそうになったとき、私はさっさと自分の分は謝ります。

仮に相手の方が大方、ひどいよなー、と思ったとしても、自分の分は謝ります。そうして、それから相手との関係をどうするか様子を見ます。

でも、基本的に謝ることのできる人は好きです。

うまく表現できないけれど、だいたい人を責めようとしたら、絶対どこか一つくらい言い募ることができることなんかすぐに見つかります。そこばかり言っておけば相手が悪いと言えるような・・・。そういうことを言う人はあまり好きではありません。

でも、逆に、価値観、人それぞれだからねー、とすぐ言ってしまうのも、どうかと思っています。自分の価値観がどうか?という点において、その人は悩んで相談しているのだから・・・。

中庸という言葉が思い浮かんできました。

私にとっての中庸は、それは、その昔、ある人と話していて、「あれ、孔子やった?孫子やった?」と訊かれて、国語の教師が恥ずかしくも、「えっ?それ、アリストテレスじゃなかったでしたっけ?」とすっとぼけたことを言ってしまったという思い出のある言葉なのですが、先日のある会合でも話題になったように、大和魂よろしく、相手でもなく自分でもない、ちょうどのところに立って、相手と向かっていきたいと思うのです。

「中庸」の意味を間違えていて、孔子にもアリストテレスにも叱られそうですが・・・。(笑)



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