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それは違う、嫌だと言える自分になる練習をしたい。

昨夜、ここのところなんで?という言動のあった生徒のお母さまと面談をした。
この生徒さん、三年前からお預かりしていたけれど、本当にやりにくい生徒さんだった。
自分の思い方を変えたり、アプローチの仕方を考え、周りの若い人たちに相談し、なんとか彼女の気持ちを理解しようと努めてきて、何度も問題になりながらお付き合いしてきた。

他でもそういう言動があるとは思えない。
だったら私だけ?
あれこれ考える日々が続いた。

まずは教師としては、誇りが傷ついている。
それなりにやって来たし、成績自体は大きく伸びている。
なぜこんな人をバカにした言動ができるのか?

もう一つ、そういうことを言わせてしまった、あるいはさせてしまった自分が許せない。

そして、人間として、失礼な態度をとるというのはおかしい。

しかし、教師は感情的になってはいけないという自分への規制が掛かっている。特に人としての尊厳にかかわるところでは、どうも自分の尊厳などどこかにやって指導、教育をしているところがある。
自分の嫌な思いなどどこかわきに置いておかなければいけないと思っている。

教師としての自分と人間としての自分。
これって切っても切れない関係にある。
それに、人間としての自分から表現しても別にいいのだろうと思う。

時に、感情的に、

ダメなんです。受け付けないんです。

という表現や心情の吐露も大事だと思った。
だって、可愛い生徒が、将来嫌な表現をするような人になってもらうのも嫌だし、そんな関係のまま一緒にやっていくことも無理がある。

ダメなことはダメ。嫌なことは嫌。

そんな風に表現することができれば、それに最初の方で、

それは違う。

ということができれば、ちょっと違ってくるのかな?と思ってしまう。

かつて何かで読んだのだけれど、ある研修期間で、今で言うセクハラが、それも今聞かされると、今だってあるにはあるだろうけれど、結構問題になるだろうなということだった。
それも、国内で一番優秀と思われる人たちの集まりであり、女性がものすごく少なかった時代のことらしい。

そのときに、自分一人のことなら我慢もするだろうけれど、みんなにとってよくないから問題にする、というのは、いかにも知的エリートらしくてよくない、と言って、訴えられたのだったろうか?

その言葉を読んで、ハッとした。
私もやりがちだからである。知的エリートかそうでないかはこの際問題にしない。
私一人が困っていたり、嫌な思いをしているのであれば、それくらい耐えられる。でも、ほかの人も嫌な思いをするなら、とか、他の人が嫌な思いをし出してから初めて問題化するようなところがある。
だから、やっと生徒が嫌な思いをしなければ、動かないようなところがある。
それに、どこか、これを許して置いたらほかの生徒もどう思うだろう?と指導に影響があると判断してからやっと動き出したりする。

昨日ちゃんと話した。
今のところ事態は収拾に向かっているようだ。

でも、考えてみればおかしな話であった。

そこで思った。
嫌だと感じたときに、サラッと注意してみたり、あるいはちゃんと問題化しておく。ちゃんと話しておくことが大事なのだな、と。
それもどこかいい格好して、どんなことにも心を揺らさないように気を付けていたりする。
そんなの人間だから無理である。
なんとか受け入れて、なんとか心を開く努力をしたとしても、メインの指導は高校受験や大学受験を突破することが目標とされているものだし、そこに到達するのに効率的なあり方をさせるのも、またもっと言うなら講師である私が、機嫌を悪くするような、それも不当なことを許しておいては良くないのである。

私がいい恰好しいなのかもしれない。
嫌なら嫌、失礼だと思ったのならそのことをきちんと最初に話すべきである。
先生面したくないとか、生徒も一人の人間だから、その子の生活の背景にも気を配って・・・、などと心情理解にも努める。
でも、それにも限界がある。
それに、そんなことしていては社会では通用しないということも伝えなければならないのである。

世の中にはいろんな人がいる。
年齢がいっているから、あるいはそうでないから、しないとかするとかは言えない。
一人ひとり個人の問題である。
ありえない、信じられないとか先入観や偏見で考えるのではなくて、ちゃんと向き合わなくてはならない。
時には自分の心とも。

今朝、どれほどそのことが私の自尊感情を抑え込んでいたかということが分かった。
思い通りに指導できていなかったことも、ちゃんとバシバシ言えなかったことも、私より生徒の方がどこか立ち位置的に高いところにいるような錯覚を起こさせられて、なぜか何か言ったりしたりするたびに、どこか監視されているような、どこか、これ以上出るなよ、と言われているような、そんな気がして、思い通りの指導ができていなかったということに気付いた。
どこか天井があって、それ以上のことはできないというか、いつも監視されているというか、手も足も出ないというか、成績を上げるためのそのことだけしかさせてもらえないというか・・・。

かつてお義父さんが、本を読んでもいいよ、と言われたから、お義母さんが仕事から帰ってこらえる前に本を読んでいるのをお義母さんが見て、

あちゃー!何読んどるがいね!?

と注意されたことを思い出した。
無言の牽制。
おそらくは我が娘の値打ちが下がらないように、差がつかないように牽制されていたのだろうと思う。
出るなよ、と。

私は我が子たちにあれこれを伝えたかったし、別に誰と競争するのではなく、ちゃんと教育をしてやりたかった。
お義母さんはことあるごとに、義妹以上に何かをすることを牽制した。

たとえば、車に乗るときには妹さんが軽自動車だから、お義父さんがコンパクトカーがいいとおっしゃったのに、いつの間にか軽を買うことになっていたし、子どもたちが、妹さんのお子さんよりもいいことをするなんて許されなかった。もちろん夫の方にもお義母さんから牽制があって言うことを聞かざるを得なかった。

そのときは家族間であれこれあっただけであるが、何となくその時のことを思い出していた。
なんだか若い娘さん相手に、無言の牽制を掛けられているようだった。
何だったのだろうか?
変な心理戦。

初めて勤めた学校でも経験した。
出るなよ、という感じ。
私の立場を越えて何かするなよ、という感じ。

ルームメイトの自称きれいな女の子は、

○○は~、○○は~、こういうことして、だれだれ先生は注意されたし、でもだれだれ先生は先生の子どもだから誰も何も言われないんだよね・・・。

いくつも情報を与え、私はそのせいで行動を阻まれていたのだと後から知った。それも、彼女は自分の立場を守るために、そうしていたのだとその彼女が部屋を出て行ってから知った。

そういう人っているんだな。
どこか自分の手の中に治めたいというような。

もちろん、人間というのは自分の立場が大事である。
でも、大きく周りの人の役に立とうと考えたときには、自分だけ、自分というものだけ見つめるのではなくて、誰が誰に役に立ち、どうすれば全体がよくなるかということを見つめることができると素敵だと思う。

なんだか若いころを思い出してしまった感じがする。
そういう構造の中に、いい年して何らかの年月自分が巻き込まれていたのだと思うと不甲斐ないけども。

でも、そういう人って、相手を選ぶ前に、そういう人なのだと思う。
自分がしっかりしてないから、とかしっかりしているから、とかいうことではなくて、そういう人って一定数世の中に存在するのだと思う。

だから、今気づいてちゃんと対応したのだから、これからは先を見つめて、できるだけ最初に気付いたときに対応できるようにしていけるように努力しようと思う。

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