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「1122いい夫婦」を観て・・・。

最近岡田将生がとんでもなくうまい役者さんだということに気付いて、だからというわけでもないのだけれど、「いい夫婦」というドラマをアマプラで観ていた。
私は高畑充希があまり得意ではない。
タイプではないという方が正しいのではないかな。
自信がありすぎる感じがする。

高畑充希とは関係がないが、謙虚さの伴う自信は大好きなのだけれど、相対的な自信が好きではない。
誰かと比べて○○みたいな。
なんだか付き合いの感じがいつも誰かとの比較によってなされているかのような気がする。
同様に、高畑充希演じる一子の考え方も好きではない。
ちょっとうらやましくはあるけれど、必死で夫婦をしてきた私たち世代(これって思い切り個人の問題であるので、こういうひとくくりにしたくないけど。)にとって、ものすごく都合がよすぎる気がするのだ。
まだ、二也もちょっと軟弱に見える。

そうそう、比較が嫌いなのである。
話は思い切り変わる。
誰かの話を出されて、比較されているという雰囲気も好きではない。
例えば、何かができていなくて、仮にそのことの理想があるとして、

○○さんを見習えば?

とか、

○○さんみたいになって・・・。

のような話が嫌いである。

もっと言うなら、学校のレベルの話も苦手。
○○よりいい、とか○○と一緒・・・、などという話になると、もうお手上げ、私の心は凍る。

そういうことがしあわせの基準にならないことをよーく知っている。

それに、仮に何かでそうだとして、特別扱いされるのも嫌い(いったい特別扱いされる何があるかはわからないにせよ。)。
家族の誰かによって、立てられるとしたら、もう逃げ出したい。

そういうところはこの夫婦にはないのだけれど、私は妻という立場に安穏とし過ぎているようで気になるのである。

セックスを外で調達してくれば?

みたいなくだりが、二也の恋愛が発覚した後に思い出す場面であったが、それって、ひどいよね?と思うし、よく男性側から離れることがなかったものだと思う。

夫婦というのは、いや家族というのは切ないけなげな努力の結晶だと思う。
何にもない、何も嫌なことのない人間関係なんてある?
夫婦というのは究極の人間関係である。
古いかもしれないが、地方に住んでいれば、いや、都会であっても?相手の両親や兄弟姉妹との関係もあったりする。
もちろん、ここのところ社会は大きく変化してきているし、民法上の規定もずいぶん変わってきている。
まだまだだとは言え、女性の人生に、以前に比べれば、ずいぶん理解を示すようになってきたと思われる。

結婚してすぐ、市役所ではなく、当時は町役場に行ったのだけれど、あれこれ手続きのために出向き、その際に説明も受けた。のどかな庁舎だった。
年金について第三号被保険者についての解説も受けた。
だいたい頭で理解したいタイプであるのがわかったのかもしれない。
その時でさえ、かつては離婚後の妻側の権利が認められていなかったのが動いたのだろうなと思っていた。かすかに。
でも、男女雇用機会均等法があれこれ取り沙汰されるまで、なんとのんびりと、女性も男性と同じほど勉強したら、何にでもなれるのだろうと思い込んでいた。それなのに、大半の女性は文学部に進むものだと信じていたあたりは面白く、先輩のお一人が法学部を受験されると聞いて、いったい何が面白いのだろうか?と思っていた。
だから、結婚して大きく変わる生活に戸惑いを隠せなかった。
すぐに妊娠したし。

それに比べたら、一子と二也の夫婦は全く違う。
思い切り羨ましい夫婦である。
おそらく若い頃の私の理想だったろうし、ましてや性的なものをよそで調達してきてくれるならなおありがたい。
でも、それでは成り立たないということを、よく知っている。
人間だから。

ああ、つらつらとまとまりのないことを書いてる。
たった一つ思い出したことがある。
好きでもない相手と、もしかしたら好きな相手とでもあまり好ましくないことをしなければならないなんて、嫌だろうな、ということ。
そんなことがなかったからか、浮気されてる?と思い、心がぞわぞわする、そういう女心を経験してみたかったと思う。
それにシミュレーションしてみたら、もしかしたら、浮気されて、それをどうのこうのと思うこともないような気がする。

ああ、私が邪魔なのね・・・。

と話し合いもせず、もっと言うなら一銭も相手からもらわずに、さっさと家を出ていくタイプである。
自分のことを粗末にし、というより、一度浮気されても、私は相手が自分に思いがないと思い込み、自分はいらないのね?となり、

それではハイさよなら・・・。

となるタイプである。
相手が求めてもいないのに、ズルズルと一緒にいるという発想がまるでない。
これには母も呆れている。

母は、相手の女に腹が立ち、もし別れてやるなら、身ぐるみはがして追い出すそうである。
が、父は全くそういう人ではなかった。

義母の話を聞いていると、もしかしたら、この人浮気容認かな?ということがあった。

(ある女性の)素顔がお化粧しているときよりも若い、と言ってたけど、どこで見たんやら・・・?(笑)

とまるで揶揄うような言い方だった。

これって、結婚観が経済や社会的立ち位置というものに偏っているのだと思う。
その観念が私の中に欠落しているのであろう。正直、経済的な面は、大変なら二人して一緒にがむしゃらに働けばいいし、社会的地位なんて、そもそも考えていない。いや、自分の仕事をするうえで利用できるなら、ほしいかもしれない。まるで「虎に翼」の寅子の発想である。(笑)

自分を嫌いになった人に、しがみつきたくなんかない。
そうされて傷ついて、その後、その相手と再構築できるほどの思いもおそらくはないだろう。

たった一人、心から、そういうことをしたくなったのは、これ、妹に言ったら、

それ、何なん?

と聞かれたが、娘であった。

この感覚がおかしいのはわかる。
でも、娘が生まれて、かわいくてかわいくて、いつも抱っこしてミルクを飲ませておむつを替えていても、もっとこの子とつながりたいと思った時、男性のだれとよりも、この子とそういうことがしたいと思ったのである。

間違っても機能的に、とかそういうことではなくて、もっとつながる手段が欲しかったのである。
性というのは、私のとっては好きな相手ともっとつながる手段だと思う。
そういう手段がないが、でも目の前にいる可愛い娘ともっとつながる手段が欲しいと思った。

その、相手とつながる手段を、なんで外で、と言えるのだろうか?

もちろん、なければ簡単だと思うし、煩わしい気持ちも相当にわかる。
なければない方がいい人がいてもおかしくない。
でも、一子は身勝手だと思う。
今の家庭生活に不満はない。夫婦はうまくいっている。
でも、性生活はしたくない。できれば省きたい、疲れるし、面倒くさいし。
でも、それって、生活が成り立つために食事をするのと同じように、共に生活するのであれば、その生活の構築の一部だと思う。
それができなくて、夫婦として一緒にいる意味があるのだろうか?

寂しいから?経済的な意味で?一緒にいるわけ?
それよりももう少し厳然と、この人とともに人生を歩んでいこうという決意が結婚なんだと思う。
仮に最初に愛がなくとも、できるだけ愛を育てる努力をした挙句、相手がその価値観とは違って、無理となれば夫婦を解消するのもありだろう。
でも、夫婦の厳しいところ、しっかり努力しなければならないところを省いて、それでいいとこどりはできないと思う。

かつて、ある業界で、修行と称される時代の大変さを嫌い、その外側の格好だけを売ろうとされていた人がいらした。
言葉と同様、外見に生き様って現れる。
だから、それは無理だろうなと思っていた。

ある時テレビで、三人の男性と座って、この女性の旦那様を当てるというクイズがあったが、私はすぐに誰が旦那様か分かった。
座り方だった。
奥様の膝が、旦那様の膝にまるでくっつくかのような距離だったのが旦那様だった。
それが夫婦だと思う。

ちなみに、私は、誰か夫とは違う男性と、時には相当に年の離れた男性と一緒に並んでいても(例えば演劇鑑賞の会で職場の先輩とたまたま会って、一緒に座っていたら、間違われたということもあった。20歳以上年上だったけど?)、夫婦に間違われやすい。これって何度経験してきたことだろうか?
そんなのまったくもって嬉しくないけど。

もしかしたら夫に合わせているうちに、そういうことを瞬時にやっていたのだろうか?と嫌な疑いを自分にかけてしまう。

本音を言うと、どうも男性が好きではなさそうな私である。
まあ、社会に出ているのが今までの経緯から男性のほうが多かったから、正直、男性を見ると、この人、仕事に?あるいは勉強に役立つかどうか?という観点でしか見れない。

女性として見てもらいたいという気持ちもおそらくないだろう。
だから努力対象として、自分の面倒くさいところを捨象して、いいところだけ取っておいて、後で付けが回ってくるーこれがブーメランか・・・?
と言っている場面があったけど、それって虫が良すぎると感じてしまう。

が、象徴的な話もある。
風吹ジュン演じる一子の母親の、久しぶりに来てくれた娘に、まるで旦那さんを比較するかのような娘への発言。

うわあ、嫌だこの人!

だった。私、こういうことされたら、自分の母親嫌いになるだろうなと思った。

あんたはいいわねえ。お父さんとは大違い。

という話。
そして娘がストレートに、

別れる選択もできたのに、そうしなかったのはあなたでしょう。私はいい人を捕まえたんではなくて、一生懸命に努力して選んだんです。

あああ、これもきつい。なかなか言えるものではない。
でも、一子は、私が今まで書いてきたことを、まあ言ってみれば私が非難しているところを、そうなるだけの原因をどこか成育歴の中でもってきたのかもしれない。ちょっと深読みしすぎかもしれないけれど。

とりあえず、これではDV父に、典型的な毒親母である。
こういうの、苦労の垂れ流しである。
それも娘の旦那さんの前でする話ではない。

そもそもその話を読んで、ああやっぱりなと思った話がある。
親が昔の苦労話を子供に聞かせるのは毒親に当たると。
そもそも毒親というのが、しっかりした定義ではないらしいので、あまりわからずに使うのもどうかと思うが、私は、親の世代から聞く話ー特に、夫がいかに義母が苦労してきたかを聞かされ、一方的に母が被害者だと思っていたのでーが嫌いである。もちろん若い頃の夫婦に何があったかはわからない。
ただ、それを聞いて、自分は絶対的に弱者だから、子供たちを自分の味方につけようというのは違うと思ったのである。
なぜなら、その子供は、どちらにせよ、その両方の血を引いている。
ルーツを非難されるということは、自分の生を非難されるということ、すなわち、自分の存在の根幹を否定されるような気がするだろうことは容易に想像できたからである。

ご多聞に漏れず、夫は義母の言うことはすべて正しい。
大きな声では言えないが、あれは傀儡に近い。
怖いし、いうことを聞かなければならないと刷り込まれていて(それは正直あまりに見事である。)、それ以外のことが正しいと誰かに言われても、勢いある言葉に、あっという間に翻っている。それはもう本当にお見事である。

だからか、実家のこともあり、私は子供たちに、両親、義両親からされた嫌なことを子供たちのメリットがあると思ったこと以外は、絶対に口に出さなかった。そんなもの聞かされるのは嫌に決まっている。

このドラマをまだ数回見ただけで、こんなこと言っていいのかどうかわからないけど、私の中であれこれ考えさせられたことをつらつら書いた。
これから観ていく中で、きっと変わっていくと思うので、見当はずれかもしれないが、それもその過程だと思っていたい。

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