見出し画像

楽な人生を送っている人なんて絶対いないなと思っているということ。

どうも周りはしあわせで、自分だけ大変だと思っているなと思い始めた生徒の姿から、私は毎日あれこれ考えていることがある。

私は家庭教師をしていたこともあって、本当にいろいろなお家にお邪魔させていただいた。
家庭教師に来てもらうほどだから、ギリギリの生活をされているということはあまり考えにくいのかもしれない。
結構難しめ、あるいは最重要顧客だと注意されて生かされたこともある。
まあ、みんなが行きたがらないような、つまりはうまく行かなかったら大変、というようなお家もあった。

本当に教育機関は、高校から始まって、予備校や各種塾や個別指導、家庭教師、中学校、そして専門学校や大学など、ありとあらゆるところで働いてきた。
だから、いろんな切り口で教育について考えてきた。
なんだかどこも呼ばれて、ひょんなことで出会った現場だったような気がする。
でもその時の出会いは、私にとっては大きな宝物になっている。

私のとっては、新たな出会いから学ばせてもらうことが大変に多いような気がする。それはそもそも、自分の今までの経験とは違うところに飛び込むことになるのだから。

話は戻る。
いろいろなお家にお邪魔したことがあった。
中には、新聞にしょっちゅうお名前が出ておられて、何だったら大阪の実家に帰って新聞を読んでも、

あ、○○くんのお父様!

ということなど結構あった。

みんなからは羨ましがられるようなお家。

でも、大抵どこのお家に伺っても、お子様がこころを開いてくださったり、お母さまが気を許してくださると、少しずつそのお家独特の大変さについて語ってもらえることが多かった。

一方、ある高校に勤めることになった私に、そちらの高校に勤めておられた先生から、

あそこの子は、手もお金も思いも一番掛けてもらっていない子たちが多いから、できるだけ構ってあげて・・・。

と言われた。
まだ子どもたちが小さかった私は、母性の塊のようで、ついつい生徒を構ってしまって、たくさんたくさん声を掛けていた。

ご自分のお子さんと生徒たちを比べてあれこれおっしゃる先生の言葉ををお聞きして、胸塞がるようなこともあった。社会で大変な目に遭っている生徒たちを、ちょっと蔑むような、仕方ないというような。
でも、生徒たちは優しいいい子たちだった。
世間でも、私がそちらで働いていると知った友人たちには、

あそこの子って、結構評判悪いけど、どうなん?

というような聞き方で尋ねられたことがある。

そこで考えさせられたのである。
正負の法則などという言葉が一時流行っていたように思う。
おそらくはその人の人生での、いいときと悪いときはみんなならせば平等というようなお話だったと思う。

大変さもしあわせもみんな同じ。

そんなこと言ってしまっていいのだろうか?ということが世の中にはある。
親ガチャ理論はどうする?

親ガチャ理論をちょっと知って、それについて考えた。
参加していた哲学カフェでも取り上げられたことがあった。

お金を使うときに、いちいち逡巡しなくていいかそうでないか?ということが取り上げられていた。

もちろん、何も考えないでお金を使えるかそうでないかということは進路決定の上でも大きいだろう。

でも、それよりも、その状況についてどう思うかということの方が大きい気がする。

すべてのしあわせかそうでないかということを、すべてお金に還元して、持つものだけがしあわせ、という考えになり、持たない自分は不幸せだから、誰かを恨んだり、憎んだりしてもいい、あるいはそうは思っていないけれど、一つ一つに対して心動かす、そういうことの方が大きいような気がする。
そこにお金が何らかの心理を誘発するとなれば、確かにお金の多寡で心を揺らすことが多くなるから、持たない人が不幸な気持ちになりがちなのかもしれない。

そこを無理やりにでも明るく思おうとしたらどうであろうか?

そしたら、その自分の心をコントロールできた分だけその人は強くなるということになる。
だから、逆境を乗り越えた人は強いとも言える。

目の前のことに感謝するか?あるいは、恨んだり憎んだりして、機会があれば利用したりするか?

その差って大きいだろうと思う。


年を重ねてきて思う。
実感として思う。
誰一人として楽な人生を歩んでいる人なんていない。
それぞれに課された課題を必死に乗り越える、その連続が人生だ。

それを自分で背負いきれないからと言って、誰かにちょっと負わせようとしてみたって、それは自分の課題だから、まるで宿題をしなかった生徒のように、自分は力を着けずに終わってしまう。それよりも、努力の負債だらけになってしまわないだろうか?

かつて、当然のように人を踏み台にしようとして、そしてうまく行かなくなって、

人の踏み台になるのは嫌やー!

と叫んだ人を知っている。
そもそも踏み台にしようと決意して、つまりはそうしていいと思っているところが問題である。
踏み台にしようとしても、されようとした人間に何かが行くのではなくて、しようとした人間に何かが行くのだと思う。

私は基本的に、誰かにしたいい行いも悪い行いも、全部自分か、それとも自分の大事な、一番幸せになってほしいと願っている人に返っていくと信じている。

だから、言ってみれば安心して生きていてもいいのではないか?と思っているのだけれど。

もしもサポートしていただけましたら、そのお金は文章を書いて人の役に立つための経験に使います。よろしくお願いいたします。この文章はサポートについて何も知らなかった私に、知らないうちにサポートしてくださった方のおかげで書いています。