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安心して話すことができるということ

 今日、noteを通してでも思ったのだけれど、安心して、誰かに話すことができるということって、素敵なことだなあ、と思った。 

 最近、私は、自分が学んだことと絡んだ会合に参加している。男性が多くいらっしゃる。楽しい時間を過ごさせていただいているその会合に参加して、私は数年前までは、完璧によそものだったということを思い出してしまった。

 割と内輪意識の強い地域のはずである。

 本格的に仕事をするようになって、もう、だれも自分のことを「大阪の人」などと表現することがなくなっていた数年前に、本当に久しぶりに大阪人であることを、ことさらに言い立てて、それを「甘んじなければならない。」と濡れ衣を着せられそうになったことがあった。だから、すっかり馴染んでしまった今でも、県内のどこかのグループに所属するとき、ちょっと、大丈夫かな?と思ってしまう自分がいる。

 でも、たいていは、今更何言ってるの―?という感じで、知らないうちに、そこの場に何となくいさせてもらって、楽しい時間を過ごしていたりする。

 安心して、物が言える、って大きいと思う。

 誰かの意見を否定せずに、一生懸命に聴いてみる。そして、相手も自分の言っていることを受け止めてくれるという信頼の下、自分に忌憚なく話してくれるありがたさ。

 私は、先日、もう、何年も掛けて関係性を構築してきたっ人との歩みを思い出して、感謝していた。そうして、初めて、その気持ちを表現できた。

 何でもと言っても、もちろん、相手の尊厳を損なうようなことは絶対に言ってはいけない。でもね、何を言っても、とりあえずは、その人の、そういう想いなんだなあ、と思って受け止める、ということが、そして受け止めてもらえるという安心があれば、本当に生きていきやすいだろうなあ。

 別に、否定するのではなくて、いったん受け止める。それを、まんまそうだと思わなくていいから、一度そういう意見や想いがあるということを受け止めてみる。それってとても大事なことだと思う。

 意見のやり取りの前に、受け止めること。

 それこそが、世界をもっと優しくて居心地のいい場所にすることなんじゃないかなあ、と思う。

 ときに、うちの教室の生徒も、もちろん、思春期の子が多いから、それは失礼かもな?という表現だってする。それでも、そうだとしても、いったんは受け止めて、その子からはそう見えるんだな、とか、そういう想いなんだな、ということを受け止めたうえで、ちょっと素敵なアドバイスができるものならしていきたい。

 だって、仕事柄仕方ない。人の人生に全く関わらずにできる仕事じゃないし。それに、私は、ちょっとおせっかい気味にお世話してくださる人のおかげで、たくさん助けていただいて来たから。

 

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