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英文からわかったことーいじめる心理

今日、アイエルツの受験対策をやっていた。
アイエルツは海外留学をする際に必須の英語の検定試験である。
指導するのは初めてである。

英検や、英検のTEAP、TOIECの指導をしてきて、今回はアイエルツの指導も始めることになった。
大学受験指導をしてきたので、正直文章自体は易しかったりするが、今まで見たことのない単語も出てきたりする。

今日、読んでいた英文の中に、おもしろい文章があった。
職場でのいじめの話である。
いろいろな心理学的な本を読みもし、カウンセラーのブログも読んできたのだけれど、これほど簡潔にわかりやすく書かれているものはなかった。
この仕組みがわかるだけで、ホッとする人もたくさんいるだろう。
日本にはいじめられる側が悪いといった話になったり、雰囲気が、とか長いものに巻かれない方が悪いといった風潮があったりするからか、また、ハイコンテクストな言語を用いる国民性のせいか、いじめに切り込むことが難しいのではないか?
正直、この文章を日本語で読んだとしたら、流れてしまいそうな気がする。
ふーん、まあね、そうとも言える・・・、みたいに。

出る杭は打たれるという傾向が高い国民性だとも思われる。
でも、意外に海外の方が競争という点ではなかなかもっと鋭いかもしれないとも思わされる。

職場でいじめるのは、自尊感情の低い人が、能力が高く、誠実で自立した同僚とうまくやっている人をターゲットにするのだそうだ。威嚇し、侮辱し、なんとか貶めようとするのだろう。それは相手のもっている能力を自分がもっていないことを認めているからなのだそうである。そして支配下に置くことで安心する。
この論を、本当に認めたならば、職場での職務に対する効率性というものは高まるのではないだろうか?

よくわかっていないけれど、産業カウンセラーの人が、もし内面にまで届くようなカウンセリングをしてくださったならば、そのカウンセリングを受ける人も救われるだろうし、会社にとっても効率的なものになる。

いじめはされる側の問題になりやすいけれど、いじめる側があってこそのものであり、その実以外にいじめる側の不幸さも深刻なのではないだろうか?
もしもいじめる側、いじめられる側の心理を突き詰めていったとしたら、意外に病巣根深いのはいじめる側なのではないか?と思わされる。

会社で働くということは、それなりの年齢になっているはずである。
大人になるまでに、親元で、自分の機嫌くらい自分で取れるようになっていなければならないと思う。
誰かの良い状態に対して、羨ましくて、妬んで、そのことに自分自身が支配されるなんて、ちょっと子ども過ぎる。
嫁に来た若い娘に嫉妬していじめるというのもそうだ。

とはいえ、私の中にもちょっとある。
やってみたいことがある。
そんな状況になれるという確証も何もないのだけれど、ちょっと優秀な若いお婿さんを懐かせて、そしてちょっといたぶってみたい。(笑)

いじめるというより、ちょっとからかって遊んでみたい気がする。
でも、それは悪く思っていないからできる範囲の、ちょっとした遊びのようなものである。

むかーし、むかし。あるところに、ではなく、住んでまだ間のない我が家で、私は息子を寝かしつけるために、息子の部屋で、ベッドで添い寝をしておりました。
ふと思い着いて、

○○ちゃんこっちで寝るんだったら、ママ、自分のお部屋に行く・・・。

と言って、自分の寝室に行きました。そして、まだベッドを買うことができずに、フローリングの上にい草マットを引いたような簡易畳の上に敷いたお布団の中に潜り込みました。当然息子も着いてきて、私の横に潜り込みました。そしたら、私ときたら、やってみたくなったのです。

○○ちゃんこっちに来るなら、ママあっち行く・・・。

当然息子は私に着いてきて、とうとう廊下で私の袖をつかんで、

うーうー、言い出しました。

そしてめでたく息子の部屋のベッドで一緒に息子が眠るまで一緒にいました。ちゃんちゃん!

絵本を読んであげるのが日課だった。

娘になら絶対にできないようなそういうことを、なぜ息子にはできるのか、いまだにわからない。
そもそも子供を試すようなことをしてはいけないことはわかっているのだけれど、でも、何となく息子にはしてしまうところがあって、私は母親失格だったのだろうか?
娘なら怒ってしまいそうだからか、それとも父親が大事にしている娘だからか、なんだかそうともできず、でも、ちょっとしたことで怒らないでちょっと可愛く抗議する息子の反応が可愛かったのかもしれない。

息子は、私が結婚したかった人は自分だと信じて疑わず、

なんて自惚れの強い息子だろうか?

と思ったことがあった。
息子の中に私からの愛情がわかっているとしんじていたらかできたのだろうか。
娘にそんなことしたら、私からの愛情がないものと認定されても困ると思ってでもいたのだろうか?

私の心の底に、どこか男尊女卑的感情か、あるいはその反対があるのだろうか?大学時代には、

それは男に甘えているということと違うんか?

と友人に言われたこともある。

私は裏表がない。
そして仕事でできないと言われたこともない。
そして結構楽しくやってきた人もたくさんいらっしゃる。

それでも、睡眠時間を確保できないくらいの仕事をしていながら、年配の先生から、

お前は弁当作ってきていないのか?

と訊ねられたり(これって結構きつい。)、女はスカートを履くものだ説もあったり、結構な要求をされたものだった。
何をもってか、アイツは苦労している(生徒に?)などといわれたこともあったらしい。そんなの教師で苦労していない人がどこに存在するのだろうか?
ましてや新人を捕まえて。言いがかりもほどがある。

しんどい人も多かった。
いつも思っていた。
仲良くやって、自分のできないことを誰かに託すくらいの気持ちになれたら、どれほど生徒たちのため、一緒に働いている学校のためになるだろうか?と。
自分、自分と言わずに、もっと大きな視点でものを見られないものだろうか?

たくさんの良くしてくれた人たちや、仲良く楽しく一緒にやってくださった方々の方が圧倒的に多いにもかかわらず、それに、困らされた人たちはきっと私にいじめられていたくらいのことをおっしゃるのも目に見えているのだけれど、やはりつい困った人たちの方を思い出してしまいがちである。とともに、自分のどこがいけなかったのかなあ・・・、と考えたりする。

人間だから。
お互いだから。
関係性があってのことだから。

でも私も含めていろんな癖をもっているからこそ楽しいのだし、その癖を少しでも平らかにならしていけるよう、死ぬまで精進したい。

その点、教師というのはありがたい。
目の前で若い人たちがいろいろなことをしてくれ、いろんな姿を見せてくれる。
そこで、一つ一つ、私も若いころ、ああいうことをしていたのかなあ、とか、うちの子もどこかでああいうことしているんじゃないかな?とか思わされる。
当然に自分自身を振り返らせてもらえる機会が多い。

とはいえ、大抵は人間のおもしろさにワクワクさせられるけど、見たくないものを見て、どわーんと落ち込んでしまうこともある。

それに、それを放っておいては教育にはならないし、ときに人間としてどう?という態度を取らなくてはならないことも出てくる。
先生と呼ばれる仕事のちょっと大変な部分は、ときにいい人ばかりではいられないことかもしれないなあ。


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