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人との出会いは自分との出会い

私の人生は、好きな人からよりも、そうではない人の方が開いてくれた人生だったと思います。
決して心地よい人間関係ばかりではなく、そうでない人がいるからこそ今ある場所をよりよくしようとして、あるいはいわれのないことであっても、自分に対する指摘によって、よりよい自分になろうと、向上心を発動してきたと思います。
小六の担任の先生が大嫌いだったがゆえに勉強を始め、中学受験をしようとしたし、受験そのものをしはしなかったけれど、勉強そのものが大好きになりました。
その後の人生でも、嫌いな人がいるから頑張ったこと、あるいは、その人がいるからこそ発見した自分というものが多かったように思います。

今朝、出勤の準備をしていたときに、ふと自分が教師席に座っている様子が見えたような気がしました。
ここ数年、ある生徒のしたことから、私がぶっ倒れそうになり、もうこの仕事嫌だと思い詰めるまでになり、ようやく立ち直ったかと思ったら、また次に新たなことがあり・・・、と、コロナ禍の影響もあったのかもしれませんが、結構ダメージを受けていました。
教室での活動に感動がない。やりたいとも思えない。
指導は好きなんだけど、生徒や保護者が何をし出したり言い出したりするかわからなくなり、ある意味不信感でいっぱいでした。

そして最近、私がぶっ倒れた原因となった卒業生は、相当にちょっと考えられないくらいある意味裏があり、大人も振り回されて当然という性質だったということがわかりました。うちの教室も彼のせいで大騒動になりそうになっていたし、私がぶっ倒れても仕方がないようなことをしでかしていたことも発覚しました。
そしてそういう性質の生徒がその後にも続き、私は疲弊していたのだと思います。

それがふと、昨日乗り越えた感じがあり、ああ、これって生徒や保護者が起こした事件ではなくて、私自身が気付くためにあったことなんだなあ、と思ったのでした。
もちろん、結構あくどい事件でした。若い世代特有の男女間の絡みもあり、むしろ私が保護者に訴えてもいいかという程度の話でした。
おそらくは言っても通じなかったことでしょうけれど。

今日、私が、お気に入りのジャンバースカートに白いタートルネックを合わせた姿で教師席に座っている姿が見えたのです。

かつてトラウマについて書かれた文章に、乗り越える前はその場面に自分がいない。つまりは自分がその風景を見ているけれど、乗り越えていた場合は、自分がその風景の中にいるのを今の自分が見ている、というものでした。
私が教室にいる自分が見えたのは初めてでした。
あ、乗り越えたんだなと思いました。

正直、嫁に来てから、私の誇りはズタズタでした。
いったい母校で学んだことはどこに行ってしまうんだと思わされるほど嫌なことも言われました。
当然受けてきた教育がすべて無駄になったかのように、あほらしいことを言われて、ディスられました。正当にやっていることを認めてくださる方もたくさんおられるので、大勢に影響はありませんが、心情的にはずいぶんな思いもしました。

でも、最近、その言っている人の心情に気付いたのです。
なぜそういうことを言っているのか?
そして、言われる私の心情もわかって来たのです。

私がそのことを良いとしていないから、周りからもいいものとして話されない。私が良いものだと思っていれば周りも良いものだと評価する表現になっていたことだろうと思うのです。

先日、母校の同窓会のHPにたまたま行きつきました。
そしたら同級生が結構活躍していて、それも進学先だけを評価するのではなくて、ちゃんとその後の活躍を見ていて、私は母校の懐の深さに触れたような気がして嬉しかったのです。
嫌な人は、数人。学校が嫌いなわけではなかったのです。
あんなに勉強させてくれる学校はなかったし、部活のなくなった高三は、高校生活って、これほど楽なのか?と思うに至りました。

おそらく極めつけに大嫌いな三人のせいで、私は母校が大嫌いになっていたのです。知る限り、その人たちは決してしあわせそうではありません。
それもそこに帰着するような人たちだと思います。

そして、教室で・・・。

数年前、お母さまが、

うちの○○が悪いのであって、先生が悪いわけではないので、先生が落ち込まないでください・・・。

と謝ってくださいましたが、正直、これほどのワルを預かっていたのだとは知りませんでした。

むしろ自分が勉強してきたことが少数派に思えて、むしろ世の中がわかっていない非常識を思い、私は自分を否定ばかりしていました。
また周りは大阪出身の私にそれを言っておけば呑むだろうと思っていたのでしょう。
そして、弱く、自分でちゃんと責任を取れない人が、誰かのせいにして自分を守る。その矛先を向けられて、私はいつも自分が悪いと思ってきました。自分が悪いと思うからこそ、私は自分を向上しようとし、自分の悪いところを直し、改めようと努力してきました。

どんなに誠意を尽くしても、その誠意を受け止めるどころか、自分の都合に合わせて使おうとする人は弱いのだと思います。
徹底的に自分に起こったことを自分で対処していない。

だから誰に迷惑をかけてもいいし、もっと言うなら自分が勝ちさえすればいいのです。
自分の弱さを誰かにぶつけて、とにかく自分が強くなれればいいのだと思います。

それが急に分かったのです。
そして、昨日ある受験生が数学を解いている、その答えを見て、

ああ、この子の生き方が表れているなあ・・・、と思いました。
結果から結果へと飛んでおり、なぜその数値が必要で、何を求められていてなんでそれを求めたのかということがつながっていない。ゆえに正答にならない。しっかりわかろうとせず、解き方だけを焦って身に着けようとしているから、表面的なものになってしまっている。
正直彼女の生き方そのものです。
なんとかうまいことやろうとしてきたやり方と同じ。

そういうやり方というのはそういう結果しか生まない。
そして、そういう人をそういう人だとわかればいいのに、そうさせてしまった自分や、そう思って蔑む自分を私は否定していました。
そう、言ってみれば自分の過去はすべて否定。経歴もすべて否定。
周りの人の良くない言動も自分のせいにしていました。

まあ、経営者はポストが赤いのまで自分のせいにしろ!と言われますから、もしかしたら私はめちゃくちゃ経営者に向いているのかもしれません!?
でも、これではどこまでも私は成長するかもしれませんが、やはりエネルギーが枯渇してしまうかもしれません。

思えばいろいろなことを身に着けさせてもらってきました。
当然、言われてできていないと思えば、その指摘に従って私はあれこれします。だから力も着けてきました。
でも、自己認識は間違っています。

最近のいろいろな出来事がそのことを教えてくれました。
随分脱皮で来た春だと思っています。

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