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美術館巡りが好きですー原田マハさんの作品にハマっています。

そう言えば最近、全然美術館に行っていない。
美術館が、目の前にあるというのに、正直、絵を見ている時間がない、だなんて言っていていいのだろうか?

美術館はできれば1人で行きたい。
誰かと行くと迷惑をかけかねない。
私は一枚一枚に時間を掛け過ぎるのだ。
お寺もそう。
せいぜい午前中には一つのお寺、午後も一つのお寺くらいしか回れない。
京都に行っても、滞在場所を器用に変えることなどできない。

美術は、どの画家が好きというより、どの絵が好き、という方がピン!と来る。

最高に好きなのは、上村松園の『母子』である。
お腹に娘がいることを知らなかった体調不良の新婚の時に大阪から来てくださった方々と金沢の美術館に絵を見に行ったとき、初めて松園さんの絵を見て、思わず、

ほしい・・・。

とつぶやいてしまった。
それほど魅了された絵である。

我が子を愛する母親の愛情が、もうどうしようもない構図の精緻さと、筆致の繊細さの中でなんで?というほどに伝わってくる。


それから大原美術館にまだ行ったことがなかった頃に、「児島虎次郎」展が来て、娘と一緒に出掛けた。

娘は、とっても嬉しそうで、

あっ!?中国の絵だ!

と言って喜んで急ぎ足でその絵の前まで行って見ていた。

その絵を2年前、母の住む市の温泉に宿泊し、今日はチェックアウトしようというその日の朝、朝食を食べながら、

倉敷行きたい。大原美術館は見ておきたい。

と言い出して、私は倉敷まで車を飛ばした。

大原美術館は、どこか懐かしく、そして自分の気持ちに馴染んだ。
そして、娘と見た、中国人の絵もあった。

京都で見ることも、今いる場所で見ることもあった絵と、再会したときには、なぜかビビッと来るものがあった。

それまで文章の中で読んでいたものが急に現実のものとして眼の前にある不思議さ。
それに母は結構美術に詳しくて、大学で学んだ私の方が少しはよく知っているだろうと思っていたが、結構いろんなことを教えてもらった。

その後、『楽園のカンヴァス』を読んだとき、もしかしたら、大原美術館?と思ったら、その冒頭の部分は大原美術館でのことだった。

美術というのは遠い距離も、隔たった人の心もつなげるものなのだなと感じる。
かつて大学時代にレポートを課されて行かなくてはならなかった美術館での出会いが、今につながっていたりする。

私は俗っぽい人間なので、図録に、学芸員の方が、自分の感じたことをうまく表現してくださっていると、ちょっと一人悦に入ったりする。
ああ、専門家の意見もそうなのね!というわけである。

最近では、原田マハさんの作品を通して、新たに美術と出会わせていただいている気がする。
ここのところ、原田マハ作品を読むことを途切れさせることができない。
大好きな受験指導が終わるのを、その一点でのみちょっと早く終わってくれないかな、と思わせるのは、今よりもたくさん本を読めるようになるだろうからで、古文の受験指導と、自分の気持ちから、一方で『源氏物語』宇治十帖を再読しつつ、夜寝る前に、原田マハ作品、などということもしてしまったりしている。

源氏は源氏で読むたびに新しく、眼前に広がる光景も、年々リアルさを増し、式部の描く心情理解も深まっている気がする。
何度読んでも新しい作品である。
ストーリー性で飲み語れるものではなく、式部の描写は素晴らしく、唸らされることしきりである。

かつて日本に印象画の作品がたくさん押し寄せていた年があり、東京に足を運ぶことが難しかった時代に、私は、テレビで、これでもかというほど印象は美術についての番組を見ていた。

その頃に大好きになった画家たちが、作品の中で人間として生き生きと動いている。
それが史実とは仮に違ったとしても、私たちのそばで息をし、生活をし、あれこれ感情を交わす。
つくづく人間というのは、愛しいものだ。
そして人生というのは哀しくて、切なくて、どうしようもないものだ。

今の年になって、まだこんなことを言っている自分がおかしいのであるけれど、画家たちの人生を辿っていて、ああ、人間って、人生って思わされる。
不条理で、理不尽で、その中の葛藤にしか生み出せないものもあって・・・。

受け容れなければならないこと。
受け容れるから作品にできること。

さてさて、まず才能ありきの話でもあるのだけれど、その人生を切り売りするかのような芸術家たちは、その苦悩と平穏な人生とをもしも天秤にかけることができたとしたら、どうするのだろうか?
芸術作品をものすことととの引き換えに、自己の人生のあまりにも壮絶さを選ぶことができるのだろうか?

その中で、選び取った中でのしあわせとは何だろうか?

芸術の中でも絵画は、とんでもなく心に嵐が吹き荒れる芸術ではないだろうか?もちろん文学だって負けてはいないだろうけれど。

そんな平穏さなど必要ないのだろうか?
自己の芸術を完成させることに比べたら、平穏などどこ吹く風なのだろうか?

これからも原田マハ作品に導かれて、そして自分でも絵画を見つめることによって、考えていきたいし、一生考えていくことになるのだろうな。
人間というものを、最後の最後まで理解できないだろうけれど、きっと理解しようと思い続けて。

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