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本当に賢い人

私は賢い人が好きです。
頭のいい人になら会ったことがあります。
とんでもなく頭の回転のいい人。
高校時代に付き合っていた人はとんでもなく頭の回る人でした。
だからと言って情が湧くか?と言えば別でした。

高校に入学して、私は絶望しました。
競争する気がなくマイペースな私にとっては異次元でした。
今になればわかるのですが、賢い人を求めててんやわんやの大騒ぎを経て入学した高校は自分にはあまりおもしろいところではありませんでした。
入学して早々、

こんな利己的な人ばっかりのとこ、嫌やわ。

と従姉に愚痴っていました。
成績のことはともかくとにかく周りに心惹かれる人がいない。
これには困りました。

高校2年の時、中学校の同級生で違う高校に行ったけれど一緒に演奏する仲間の一人に失恋した時は周りはとても心配してくれました。
そんな時に付き合いだした人はとんでもなく頭が良かったのです。

今日、生徒の親御さんから連絡が来て、ある生徒が学校生活に悩んでいるということを知り、さもありなん・・・、と思いました。
だいたいおもしろくないことは知っていたし、入ればなんとかなると思っていたけれど、その生徒は私がかつてした思いを一通りしているようでいつ話を聞いても私は共感してしまいます。
みんながいいという学校をなぜ合わなかった、といつまでも悩んでいたのかということを彼はその都度私に伝えに来たかのように、当時の私の悩みを一通り言い出すのです。

勉強していれば常識なんてどこ吹く風。
そんな学校は世間からはちょっと評判が悪かったようです。
一度ピアノの先生に注意されたことも、なぜ注意されているのかわからなくなっていました。勉強ができると言われている学校だからこそ目につきもしただろうことを決して特権意識があったわけでもなくて自然の周りと同じようにそうするようになっていました。
それまで品行方正を地で行っていた私が周りから見たら非常識と思われることもするようになっていたと思います。
そういうところが違っていました。
どこか脱皮しているようでもあり、どこかそれまで仲良かった人と離れていくようでもあり、中途半端なところでなんともシャッキリしないままに卒業しました。
あの頃は何だったのだろう?

そんなことを目の前の生徒は悩んでいるのではないかな?

私は頭の良さと、ある種の常識と、勉強をあまりしない人がいてもそれぞれの尊厳を尊ぶ人が好きです。
勉強しなくても、特権意識を持ってしまう人もいますが、勉強したからこそなおさら頭を下げ、謙虚であろうとする人がどこかにいないかな?と思っていました。あらら、とんでもなく自分を棚に上げているようです。

学問というのはそういうものだと思います。
ノブレス・オブリージュではないけれど、学問させてもらったからこそ、その価値を社会に還元していく。利益があったからこそそれを社会に還元していく。

京セラの創業者である稲盛和夫さんがおっしゃっていた、ご自分が今京セラの経営をしているけれど、たまたまそれが自分であっただけで、誰でもよかった。たまたまその能力を天からいただいたのが自分だっただけだ。だから私物化してはならない。

というようなことをおっしゃっていましたが、本当の人間の賢さというのは、自分の物としてだけではなくて、周りのために使うべきものだと思うのです。

そんな人一生巡り合えないのかなあ・・・、と思っていました。
でも、最近、もしかしたら、この人は自分の頭の良さも人のために使い、とんでもなく賢く生きておられるのかな?と思われる方に出会いました。
私は人の心遣いによく気付く方だと思います。
でも、それにしてもまだまだ気付くことが追い付かないくらいに後になって、あの時のあの物言いは・・・、とさりげない心配りに驚くのです。
無用な心配を掛けないように、要らぬ情報は一切漏らさない。でも必要なことは全部遂行。ただただ任務遂行に全力を傾ける。一言一言でさえ、神経が張り巡らされています。こういうのは若いころから気を付けていなければ絶対に身に付かないものだと思います。
それに言葉というのは使いようによってはとんでもない武器です。
上手く誤解されるように、つまりはしっかり話してはいるものの、余計な心配はしないような方向で話している。つまりはまるで未必の故意のように、ちゃんと安心側に誤解するような説明になっている。

そういうことできる人って、本当に賢いのだと思います。
勉強してきたことをこんな風に使える人は初めて見ました。

かつて、倫理政経の時間に先生が、どいう話の中でであったか、

たくさんの人間がいて、もし一人分の食料だけ目の前にあったとしたら、どうしますか?

という質問をされました。

最初に指名されたのが私でした。

私は食べません。誰も食べないと思います。

と答えました。

そしたら、質問の意味をちょっと勘違いしているようね。~って聞いたんだけど。

と困ったような顔をされました。教室全体がし~んとしてしまいました。

そして、

あなたは食べないということね?

と言われて、私は釈然としなくて困ったのでした。
そして次に当てられた子が、はっきりと、

私は食べます!

と言ったら、

そうね・・・。一人だけ生きることができるんやからね・・・。

とおっしゃいました。いかにもそちら側にもたった一つの答えがあるようでした。

せめていろんな考えがあることを認めてほしかった。私にとっても衝撃でした。一人だけ生きるという選択肢が私にはなかったのです。
おそらく学校の性質からしたら、私のような考え方は面倒くさいものだったのだと思います。

競争に勝つことが原理だったのでしょう。
そんなこともわからずに入学した自分がおかしかったのでしょう。

でも目の前にいる生徒はどうも同じようなことで悩んでいるようです。

そんな競争に勝ちつつ、でも周りのことを考えられる人っていないかな?とずっと探し続けていたように思います。
勝ったから、優しくなれるという面もあるでしょう。
でも、いわゆる勉強をしてきて、それなりに頭が良い、とご自分で思っている人もいる仕事をしてきて、ある人が生徒に、

PTA活動をしてた時の保護者について、

あれほどばかばかしいものはない。周りはバカばっかりやぞ!

と言っているのを聞いて、唖然としました。
いったいこの人は何のために勉強してきたのだろう?
もし周りが賢くないと思ったのなら、ちゃんと伝わるように話すべきです。
同じ集団にいるのなら、自分だって同じレベル。
こういう表現で、自分の値打ちを測っている人が嫌いです。

それに同じ学校同士で集まってばかりするのも違うと思います。
むしろ同じ学校からあちこち散らばっていろんなところで活躍する方が本来の在り方だと思うのです。
私たち、というものだけに利益を還元するのではなくて、ちゃんと周りに還元する。

大学時代、あるときにこう言われました。

皆さんからもお金が出ているけれど、皆さんが勉強するには国からのお金がたくさん出ているんです!

要するに私物化するな!ということでしょう。
学んだことの私物化。
ましてや人をバカにして自分の値打ちを上げるために学んだことを使うなんて愚の骨頂です。

そんなこんなを考えていたときに出会った人が、あまりにも自分の学んできたことを周りに還元ばかりされているようで、驚いたのです。
そういう人には、ご自分のこともお考えになったらどうですか?と言いたくなります。

でも、ああ、賢い人に出会えた、と私はなかなか世の中って捨てたものではないな、とちょっとだけ嬉しくなっているのです。

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