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ええ格好しいな私が本音をぶつけた理由。

先日、どこか冷静に客観性もありながら、まあ、言ってみれば感情的に今まで思っていたことをある人にぶつける仕儀となった。

大体において私はええ格好しいである。
誰かが失礼なことをしたなと思っても、そう思う自分がえらく偉そうであるかのように思い、たいていは自分の問題として捉えるようにしている。
それが間違いだということも最近ものすごく思い知らされた。

たいてい、そういうことになるときには相当それまで受け入れてきた過程がある。
そしてぶつけてみて、相手の考えていることを聞いてみて、たいていは呆れることが多い。

なんだ、そういうことだったの!?

ちゃんと自分でそういうことは片づけて、誰かに迷惑かけないようにするべきではないのか?

ということが多い。

私は大体、経験していないことに対して何かを語る人が嫌いである。
やってもみないのに、批評する人。

ちゃんとやる人が好きである。
結果がどう出ても構わない。
とりあえずちゃんと行動して努力する人。

かつてがどうだったとか聞いていない。
今目の前のことに対して何ができるか?何をしているか?
過去の自分は関係ない。
というより、人生は脱皮の連続である。
気付く努力をし、変わるという意思を持たなければ、自分が変わらずに誰かだけを変えようとする人は、賢いとは言えない。

目の前の現象に対し、ちゃんと自分でできることはちゃんと自分で努力する。
過去に努力したこともうまくいったことも全く関係ない。
学歴も職歴も部活で活躍したことも全く関係ない。
今、目の前にいる人に、ましてや自分の大事な人に何ができるかということがすべてである。

私は何かにおいてのプロが好きである。
それはお洋服屋さんかもしれないし、八百屋さんかもしれない。魚屋さんかもしれない。お医者さんでもいいし、車屋さんでもいい。塾の先生でも学校先生でも幼稚園の先生でもいい。私の場合、生地屋さんや食材のお店の人は大切である。

誰かに何かを聞いてみた時に、ちゃんとこちらが知りたいことを教えてくれる人。
○○という状況があり、こうしたい。あるいはこう改善したい。
ついてはどうしたらいいですか?

そのことに回答してくれる人がいい。
例えば仕事着を選ぶとき、あるいは出張の時の服を選ぶとき。服はその場をちゃんとしたものにしてくれる。
生地をえらぶとき、その素材だと、ワンピースには向かないとか、スカートだときれいだとか。
車だったら、年齢に合わせて外観とか、遠出をよくするとか、用途に合わせてこちらの希望を聞いたうえでお勧めしてくれる人がいい。
こういう事情があって、自分の身体をどうしたい。どういう治療があるか?どんな薬があるか?などとしっかり専門的に語ってくれる人がありがたい。
専門家ほど偉そうにしないって思っている。専門家は相手のニーズをちゃんと尊重しつつ、ちゃんと方法を語ってくれる人である。

専門家がひいきしたって私は許す。
だって、お菓子作りの研究熱心な人に、いい素材や合理的にその素材を手に入れてもらおうとしたところで、売る側にだって人情というものがある。熱心な人には良い状態を与えたいと思うのだってわかる。
本人が一生懸命だと、私たち講師だって、より一生懸命になってしまうというのは、当然のことだし、それが相乗作用というものである。

何かを成し遂げたければ、少々大変な思いもしなければできない。
誰かと同じく、楽をして何かを手に入れられるということはない。
それはなんでもそうである。
現状を変える勇気もなく、変える勇気を持ち、粘り強く努力を続けてきた人が得たものを羨ましがるのは、貯金もせずに、一生懸命貯金して何かを買った人をうらやむようなものである。

最近、能力という言葉に辟易している。
もちろん、親ガチャ理論も知っていて、すべてを否定するわけではない。
努力で何でもできるという考えが一面危うさを持っているということも知っている。
とはいえ、何かした人に対して、能力があったから、親に感謝しなさいというのはおかしいと思っている。
能力と親からの遺伝だけで何かできるわけではない。

画家であったピカソの父が、ピカソの才能を見て筆を折ったという話は有名であるが、ピカソだって、大作をものすときに、どれほどの苦悩があったかということを読んだことがある。
才能だけで何かができるなんてことは全くないと思う。

努力の連続。
次から次へと課題は現れる。
一つ課題を乗り越えたら、次!の連続が人生だと思う。

それを人生の若いいつかで努力したから、今はもういい、というときはこないと思う。

かつて、今まで自分の言うとおりにしてもらってきたから、これからは「従います。」と言った人を知っている。
だいたい、その従いますという言葉がおかしい。

小さい頃の息子の発言、つまりはたかだか小学校四年生の男子によっても、

誰かが誰かに命令するのはおかしい。

ということだったので、さしずめ、

誰かが誰かに一方的に従いますだとか従わせるとかいう言葉がおかしい。

とでも言われそうである。小さい子であっても。

従いますというからには、それまで従わせてきたという思いがあるのだろうし。

先輩の先生にも、

従います。

とおっしゃった方がいらした。

何?その言葉?

と不思議だった。

その人が発する言葉には、その人が現れると思う。
私の中に、従うだとか従わされるという語彙がどうも口語ではない。
何かの状況を表現するときにはあったとしても、それが口をついて出てくることがない。

会話の中で、ある状況を、即座に、

卑怯じゃないですか!?

とおっしゃった方がいらしたが、その瞬間、それまでそうと明確に思ったことがなかったが、

ああ、この人は卑怯なんだなあ・・・。

とつくづく思ったし、ああ、そういうことだったんだなあ・・・、と思っている。

もちろん人生に起こることに対して、いちいちちゃんと対応することはすべてにおいて可能だと思っているわけではない。

でも強い人というのは、自分のことをしながらも、誰かのために役立つことをちょっとずつする人のことだと思う。
また、弱い人は、目の前にある自分が絡んだことにも目をつぶって、どこか先延ばしにして対応しない人だと思う。そして誰かにそれをちょっとお願いみたいなことをしていては、全体にひずみが来る。
それにちょっと被る人は力をつけるが、誰かにお願い側は力をつけない。

そうそう、受験生たちに話した。
ちゃんと目の前にあることはその都度その都度片づけといたほうがいいわよ。受験も同じ。今やるべきことをしっかり片付けておきましょう。

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