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剰余の定理と取っ組み合いをした深夜

昨夜の最後の指導は、高3共通テスト国語だった。
前回、前々回に残っていた小説の解説をしたので、古典の前回は古文の演習と解説しかできず、昨日は漢文の演習と解説をした後、小説の演習のみになってしまった。
漢文と小説の間に休みを入れたその数分の間に、理系の生徒から、数学の質問を受けた。
学校から出されていた、中間考査のプレ問題らしい。
一題だけ答えを見ても意味がわからないらしい。
それを私に解いてほしいと言う。
なんでも演習中、私がとっくに問題を解いてしまっているので、暇そうだと言って、ほかの教科を渡すあたり、ちゃっかりしているというか、塾の性質をわかっているというか、
まるで、

母さん、俺らこれやっとる間に、これやっといて!

と言われているような気がして、自分の専門分野の国語の時間に、数学を解く羽目になっていた。

パッと見て、高一で学習した剰余の定理だということがわかった。
剰余の定理は結構得意だった。整数の問題は好きである。

が、ハマってしまった。
どうにも身動きできない。
自分流の解答をしてみるが、およそ解説できないような複雑なものになりそうである。
答えを見てみる。そして解答を見てみる。
イマイチわからない。

生徒もわからなかったらしい。
そこで参考書を参照してみるが、もっと易しめの問題しか掲載されていない。
ここはネットで・・・、と剰余の定理を検索する。

入試数学コンテストの問題にあった。
高校数学の美しい物語の中にあった。

これを参照してみることにした。
そのことに思い着いたのは、指導が終わる10分ほど前。
文系の生徒は演習が終わっているが、理系の生徒はちょっと待ってください状態。
まだ時間制限をするよりはしっかり読んでもらいたい状況なので、結局私は昨夜は小説の解説はしないで数学にのめることになった。

数学やっているときの私はとんでもなく集中しているらしい。
数式とにらめっこし、どこにヒントがあるか、どの数字を動かせばいいか、シャーペン片手に紙の消費量がどんどん増えていく。
これは高校時代からそうだった。数学のノートばかりが点数には比例しないでなくなっていく。
一方国語など全然なくならなかった。やってないし・・・。(笑)

結局昨日は終わらなくて、うちに帰り軽い食事をし、お風呂に入って、あれこれした後、やっとデスクに向かい、解き始めた。
明日、つまりは今日が数学の試験だと言っていた。
なんとかラインで解法を送りたい。

数学コンテストの問題と解法を理解し始める。
ああ、美しい。なんとも美しい。
高校数学の美しい物語というだけはある。

そして、それを今度は生徒から渡された問題に応用し始める。
最初はなんだかこんがらがってうまく行かなかったけど、ひとたびコツをつかむと、嘘みたいに簡単に解けてしまった。

私いったい何してたんだろう?
と思わされるシンプルさだった。

思えば数学というのは、この世で最もシンプルで美しいストーリーだ。
とはかつて中学生に話していた。
現代文の最も美しい解答のような。

1時までに解けないかなあ・・・。

もし一時までに解けなかったら、生徒の送っても眠っているかもしれないし、明日のことを考えても眠ることにしよう・・・。

と思っていたけれど、1時前には解くことができた。
良かった。
と思ってラインする。
生徒も起きていた。良かった。

大学入試でもときに答えはあるけれど解説がないことがある。
その時もにらめっこして、今日中に解くからね!
と言って、どうにかして解けなかったことはない。
とにかく数学は粘る。粘っていたらなんとかなる。
けど、これを受験生がやってしまったら、とんでもなく時間が掛かるので、わからなければ答えを見るなり、誰かに聞いたりする方がいい。

でも、私は昨日解けて嬉しかった。
人の手を借りたのだけれど、それでも嬉しかった。
数学を解く喜びというのはまさにこういうものだと思う。

数学の勉強って、いろんな力を身に着けさせてくれる。
粘り強さや根気強さ、思考力、発想。
それにだめかもしれないけれどやってみるという姿勢。

進学しても社会に出ても、家庭をもっても、先はわからないことを勧めることの連続である。確実なものなんて全くない。
そんな中を勇気をもって生きて行く、人生のコマを進めていく、そういう勇気を培ってくれる。
間違うことを恐れない力を培ってくれる。

偉大なるかな、数学。

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