処女作

もうずっと前から,私は独りだった。
もうかれこれどれくらいだろう。思い当たらない。
以前,いつだったか,火災警報器の点検の業者がやってきて以来,
私以外にこの部屋に出入りする者はなかった。

ただ,私は孤独に慣れていたし,
コントロールすることができる気がしていた。
というのも,私は,その研究室に一人しかいない博士後期課程の大学院生であった。
博士前期課程の頃から独りであったし,孤独の中で学問に没頭することこそ,大学院生なのだと信じていた。

私は,その日も研究室で独りだった。
感じられるのは,左後ろにある扇風機の風と,窓の外のカラスの鳴き声くらいだった。
今日もまだ,お昼に食堂で発した「天ぷらそばをください」の一言以外,
口にしていない。

いつもと違ったのは,私の中身だった。
その日の私はどうかしていた。
普段から他人の評価を恐れている私に,
このような主張も根拠もない,
エッセイなのか小説なのかもわからない文書を書かせてしまうほどだった。

私がこんな文章を書くのは初めてのことになる。
孤独を紛らわすために,書いてみようと思い立った。
自分の身体は研究室に置いたまま,
頭だけを現実から切り離そうと考えたのは,実に私らしい。

これは私の処女作になるだろうか。
少し前に深夜のラジオで聞いたが,
ある女性の作家が初めて小説を書いた年齢と、私の年齢は同じらしい。
私は,数本ではあったが論文を書いたことがあったし,
それなりに小説やエッセイも読んできたと自負していた。
私にもできないことではないだろうと高を括っていた。

孤独を紛らわすには,ほんの一行で十分だった。
小説のQ&AがあったならQ1で挙げられるだろう悩みを私も同様に経験した。
第一行目を書き出すことが見事なまでにできなかったのだ。
当初は,私にしか書けないものを書いてやろうと意気込んだが,
それは簡単で,難しかった。
誰も書いたことのないテーマなど、到底思いつかなったし,
いざ書き出してみても,それは,良くてこれまで読んだ小説の縮小再生産だった。

1時間ほど経ってから,頭の方も研究室へ戻った。
目の前には,研究に必要な資料が色とりどりのファイルで縦横に並んでいる。
私にしか書けないことなんてあるのかと考えるのは,
私が大学院生だからではなく,みんながそうだからだろう。

いつの間にか私は,第一行目を書き出すことができた。
「もうずっと前から,私は独りだった。」

私の今を書いてしまえと思った。
それこそ,少なくとも今すぐには,誰にも真似することのできないことだろうと,得意げになった。
孤独を紛らわすため,孤独について書くことにしたのだ。
我ながら捻くれた戦略である。
しかし,私にあるのは,孤独だけだった。


***

拙著を読んでくださり,ありがとうございます。
大学院で感じている孤独を紛らわすため,短編の小説やエッセイを書いています。
次回作もお読みいただけると幸いです。

ひまつぶし

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