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【F1ドライバー紹介】ナイジェル・マンセル氏とは。【大英帝国の愛すべき息子】

『荒法師』

ロータス・95T(1984年マシン)をドライブするナイジェル・マンセル。画像はWikipediaより引用。



『俺を誰だと思ってるんだ走法』

FW12(1988年マシン)・ジャッド(エンジンメーカー)をドライブするナイジェル・マンセル。画像はWikipediaより引用。



『大英帝国の愛すべき息子』

…上半身の筋肉を最大限活かしたアグレッシブなドライビングや、その感情豊かな人間性で、多くの人々を魅了した、元F1・CARTチャンピオンの、ナイジェル・マンセル氏。


…ご挨拶が遅れましたね😌。皆さんご機嫌よう☺️。暇人33号🐹です。

今回は、未だに筆者が強く印象に残っている、元F1ドライバーのお話でございます。

本記事は、以下の流れとなります。

✅2022年のF1はどうなっている?

✅ナイジェル・マンセル氏とは

✅マンセル氏の仰天エピソード紹介

宜しければ、ご覧下さい🏎💨

2022年のF1はどうなっている?

現在、2022年のF1は、開幕戦からフェラーリのシャルル・ルクレールと、レッドブルのマックス・フェルスタッペンの両雄がバチバチと火花を散らしており(あくまでもフェアなバトルをしていて確執はありません)、目の離せないシーズンとなっております。思えばカート時代から両者はライバル関係でしたね。

対してメルセデスは、先鋭的なゼロポッドコンセプトが上手く機能しているとは言えず、サスペンションの仕様変更に上手く適応できていないのか、後退気味となってしまっております。

まだ始まったばかりの2022年シーズン、どうなることやら。

前置きになっていない前置きはさて置いて😅。

そんな2022年シーズンの目の離せない戦いを見ていても、サブリミナル効果のように筆者の頭の中でチラつく、ナイジェル・マンセル氏とは、一体どのような人物なのでしょうか?いよいよお話していきます。

ナイジェル・マンセル氏とは

2021年現在、F1とCARTのチャンピオンを2年続けて獲得した唯一のドライバー。

1990年には大英帝国勲章・オフィサー章(OBE)を、2012年には同・コマンダー章(CBE)を受勲。2005年に国際モータースポーツ殿堂(The International Motorsports Hall of Fame )入り。

日本での愛称は「マンちゃん」、「荒法師」、「暴れん坊将軍」。
『ナイジェル・マンセル』Wikipediaより引用

イングランド出身の元レーシングドライバーで、本名はナイジェル・アーネスト・ジェームズ・マンセル(Nigel Ernest James Mansell, CBE)といいます。

CBEとは、大英帝国勲章のコマンダー(司令官)章で、一番上から三番目にあたる栄誉ある勲章を受勲した凄い人物でもあります。

アラン・プロストやアイルトン・セナ、ケケ・ロズベルグやネルソン・ピケと並んで、1980年代から90年代前半を代表するF1ドライバーの一人。

1980年にF1デビューしてから、1995年に実質引退するまでに通算31勝(歴代7位)を記録。デビューから12年でワールドチャンピオンを獲得した遅咲きのドライバーでした。

それまでに何度もワールドチャンピオンになるチャンスを得ますが、チームや自身のミスによって取り逃しており、「無冠の帝王」と称された時期もありました。

イギリスの労働者階級の家で生まれ、持ち家を売って借金を重ねながら、奥さんと共に苦労して頂点に登り詰めた、文字通りの苦労人です。

日本のバラエティ番組(生ダラだったかな?)やCM等にも出演しており、芸人とカート対決していたのをよく覚えています。

冒頭でも書きましたが、感情豊かな人間性が人気を博し、『大英帝国の愛すべき息子(Great Britain's lovely son)』と呼ばれました。

ナイジェル・マンセルの仰天エピソード紹介

マンセルが活躍していた時代は、筆者はまだ幼少の頃でした。うっすらとしか記憶に残っておりませんが、喜怒哀楽が激しく、常に全力でドライビングする任天堂のマリオっぽい人という印象だけは強く残っております。(オーバーオールを着せて赤い帽子を被らせたら…)

それが未だにマンセルが頭の中にチラつく要因となっているのだと思います(笑)。

そう言えば、当時スーパーファミコンのマリオカートが流行ってたなぁ…(しみじみ)。

そんな筆者の頭から離れない、ナイジェル・マンセルの仰天エピソードを、Wikipedia等からピックアップする形で五つご紹介致します。

五つのわけは、マンセルのカーナンバーが「レッド5(レッドファイブ)」である事に因みます。

1.鎮痛剤を通常の7倍打ってF1走行テストを受ける

そのアグレッシブなドライビングスタイルにより、ドライバー人生を通して、マンセルは怪我が絶えませんでした。

F1の二段階下のカテゴリである、F3で頚椎を痛めたマンセル。とてもマシンをドライブ出来るコンディションではないのにも関わらず、二日後に鎮痛剤を通常の人間の6~7倍も打ち、ロータスのF1走行テストを受けました。

ロータスのマネージャーに「事故で酷い怪我をしたそうだが」と尋ねられると、「同姓同名の別人でしょう?」と答えたそうです。

何が何でもF1をドライブしたかったのでしょう。持ち家を売り払ってまで、ドライバー人生に邁進し続けていたマンセルには、それしか選択肢がなかったのです。

それにしても、尋常ではないハングリー精神です。豆腐メンタルな筆者も見習いたい所です。

2.ハマった時のパフォーマンスの高さ

精神のコンディションがドライビングに現れると言われたマンセル。ドハマりした時のパフォーマンスは尋常ならざるものでした。

漠然とした記憶を頼りに、Wikipediaを見る事によって記憶が鮮明になったのが、1992年のイギリスGPでした。とにかくあの時は凄かったです。

当時、マンセルが所属するウィリアムズは、パトリック・ヘッドとエイドリアン・ニューウェイが作ったFW14Bが驚異的な戦闘力を誇っていました。天才ニューウェイの空力設計、それを活かすリアクティブサスペンション。付け入る隙がありませんでした。

しかしマシンの戦闘力だけでなく、それを最大限に活かしたマンセルも凄いのですが、特にイギリスGPは先述のマンセルの特性がいかんなく発揮されたのでした。

なんと、練習走行・予選・決勝全てにおいてトップ、予選においてはチームメイトのリカルド・パトレーゼに二秒という現在では考えられない大差をつけポールポジションを獲得しました。決勝においても、全周回においてラップリーダーと実質「完全優勝」を達成しました。

おそらく、母国グランプリ+多くの声援を受けたというのが大きかったのだと思います。当時シルバーストン・サーキットには二十万人の観客が押し寄せ、観客の声援でマンセルが何処を走っているのかがわかるレベルで応援されていました。

勝利後のウイニングラン中に、観客がコースに乱入してマンセルは立ち往生し、マシンを降りた後に揉みくちゃにされたそうです。今だと考えられないですね。

3.F1のみならず、CARTでもチャンピオンを獲得

1992年に念願のF1ワールドチャンピオンを達成したマンセル。しかし、ワールドチャンピオンを達成出来る可能性の高いマシンを、他のドライバーが走らせたくないはずがありません。

必然的に次年度のシート争奪戦が激しくなるなか、政治的駆け引きに疲れ果てたマンセルは、引退を決意します。

元々マンセルでやるつもりだったウィリアムズは、マンセルに引退会見を止めるようメッセージを送りましたが、会見を続行し、引退が決定します。(だったら契約交渉でマンセルのモチベーションがダウンするようなブラフを使うなよとウィリアムズサイドに言いたいです)

1993年はアメリカのCARTに参戦します。CARTはインディカーを使用した当時アメリカで勢いのあったモータースポーツで、F1と肩を並べる程のものでした。

同じオープンホイールカーでありながら、勝手が違うマシンに素早く適応して、なんと参戦初年にしていきなりシリーズチャンピオンに輝きます。

歴史上、F1とインディカーの両方でチャンピオンとなったのは、エマーソン・フィッティパルディ、マリオ・アンドレッティ、ナイジェル・マンセル、ジャック・ヴィルヌーヴの4名のみ。

4.技術的な理解力も高い

ドライビングスタイルや、メディア等への対応などで猪突猛進型・直情的と思われがちですが、そもそもマンセルはドライバーを目指す前は航空宇宙技術者でした。

故に極めて理知的な一面もあり、1988年に本田技術研究所の川本信彦氏がインタビューにこう答えております。

「整然として系統立った彼のアプローチにはひどく感心させられました。事柄を想起する能力、車の反応を説明するしかたには、エンジニアとしての経歴が生きていると感じました」

さらに「その後、ウィリアムズ・ホンダを通じて再び彼と繋がりができたとき、ナイジェルは非常に優秀でした。ターボ車からベストをひきだすには、自分のドライビングスタイルを変える必要がある、とすぐに気づいたようです。さすがだと思いましたね」
『Wikipedia』『F1グランプリ名鑑』より引用

確かに、ただただ直情的だったら、ワールドチャンピオンになれるはずもありません。F1の世界はドライバーもメカニックもエンジニアも、凄まじい天才だらけの世界ですからね。

5.アグレッシブなドライビングスタイル

その1やその4でアグレッシブなドライビングスタイルと書きましたが、どのようにアグレッシブだったのでしょうか?それがどのように仰天エピソードなのでしょうか?お話します。

それは、コーナーへの突っ込みにありました。ブレーキングで減速しきらないままコーナーのエイペックス(頂点)に向けて素早くマシンの向きを変えるスタイルで、筆者の認識違いでなければ、現在はマックス・フェルスタッペン等が似たようなドライビングスタイルをとっております。

それをパワーステアリングのない当時のマシンで行っていたのだから驚きです。筆者のような常人なら曲がる事すら出来ずに、ウォールに激突でジ・エンドでしょう。

他にも様々な方面で限界を追求していく姿勢で、先述の通り技術面の理解力の高さもあいまって、FW14Bのリアクティブサスペンションも、そのポテンシャルを最大限引き出す事が出来たようです。

感想

改めてWikipediaを元に色々調べてみると、ナイジェル・マンセル氏の様々な一面に気づかされました。

どうしても当時の印象や、バラエティ番組に出ていた時の記憶でただの面白いおじさんと思っていたので、それだけの人物ではない事を思い知ると共に、ナイジェル・マンセル氏への敬意が自然と湧いてくるのでした。

最後に

如何でしたでしょうか?

F1人物紹介や、F1(だけでなく面白いと思った)読書感想文は不定期にはなりますが、まだまだやっていきます。

筆者のブログは「雑記」とは言え、

「色んな方面にブレ過ぎてついてけないわ😰」

と思われてしまうのも無理はありません😓。

「まあ、見てやっても良いか」

そう思われた聖者のようなお方🥺、これからも筆者の雑記ブログを宜しくお願い致します🙇‍♂️。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました😊

宜しければ、スキ♥️やフォローもお願い致します🙏。日々の励みになっております。

それでは、今日はこの辺で☺️。

また会いましょう🏎💨

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