「議論ができない」面白さを笑っていて良いのか?(12人の優しい日本人)
映画「12人の優しい日本人」を観ました。
ストーリー
三谷幸喜脚本の喜劇映画「12人の優しい日本人」。「十二人の怒れる男」という映画のパロディの舞台を映画かした作品でした。
映画のストーリーは下記の通り、議論になれていない12人の日本人が陪審員として、有罪無罪の結論を出すまでの2時間を描いた作品です。
ある殺人事件の審議のために12人の陪審員が集められた。ここに来た12人は、職業も年齢もバラバラな無作為に選ばれた人々。陪審委員長を努める40歳の体育教師の1号、28歳の会社員の2号、49歳の喫茶店店主の3号、61歳の元信用金庫職員の4号、37歳の庶務係OLの5号、34歳のセールスマンの6号、33歳のタイル職人の7号、29歳の主婦の8号、51歳の歯科医の9号、50歳のクリーニング店おかみの10号、30歳の売れない役者の11号、そして同じく30歳の大手スーパー課長補佐の12号。被告人が若くて美人だったことから審議は概ね無罪で始まり、すぐ終わるかに見えたが、討論好きの2号が無罪の根拠を一人一人に問い詰めたことから、審議は意外な展開へ。有罪派と無罪派と分裂、さらに陪審員達の感情までもが入り乱れ、被告人が有罪の線が強くなっていく。ところがその時、他の者から浮いていた11号が事件の謎解きを推測し始め、それによって事件の新たなる真実が判明する。そして事態はまたまた逆転し、被告人は無罪となるのだった。
(映画.com「12人の優しい日本人」https://eiga.com/movie/37030/ より)
「当時の常識への共感による面白さ」と「令和の常識と比べた違和感」
12人の陪審員たちが、議論が上手くできない「日本人らしさ」を演じています。それぞれのキャラクターが演じる様々な「日本人らしさ」に対して、「そういうこと、あるな」という面白さの映画だと思いました。
しかし、1991年に公開されてから、30年が経ち、当時の常識と、令和の時代の常識とが既に少し違っていて、「共感による面白さ」よりも「当時の常識に対する違和感」を私は感じました。
特に、12人の陪審員の中で3人の女性陪審員5号、8号、10号の描かれ方に違和感を感じました。
「論理的に考えて」が口癖なのに、発言は事実の羅列ばかりで論理的ではない、陪審員5号。
「もうよく分かんない。頭整理できないの。陪審員て難しいですよね」という発言をしているように、自分の意見を持たずに周囲の意見に合わせようとする陪審員8号。
「私が無罪だと思った理由は…」「理由がないと駄目なんですか」という発言のように、感覚的に意見を述べて、自分の意見の根拠を伝えられない陪審員10号。
きちんと議論ができているキャラクターは12人の中にいませんでしたが、陪審員5号、8号、10号のキャラクターの設定背景に「女性=論理的に話せない、感情や感覚で物事を考える存在」という当時の常識が見え隠れしているように感じました。
「きちんとした議論ができない」ことは、もはや笑いごとではない
女性のキャラクターの描き方に対しても違和感を感じましたが、「議論ができない日本人らしさ」を面白おかしく描いていることにも違和感を感じました。
「きちんとした議論ができない」ということは、もはや笑いごとではない社会になっていると思うからです。
少子化や人手不足に直面する中で、生産性の向上は欠かせないと思います。また、女性の社会進出や外国人労働者の増加などの影響で、バックグラウンドや価値観が違う人と共に働き、暮らす時代になっていると思います。
そのような環境変化の中で、相手の意見を聞いて意図を理解したり、自分の意見を論理的に伝えたりすることで、妥協ではなく第3の案を出すような議論が重要だと思います。
きちんとした議論とは何か?(トゥールミンモデル)
それでは、「きちんとした議論」とは何かについて、もう少し考えてみました。
深谷秀樹「日本人と議論 : 映画『12人の優しい日本人』を題材に」では、議論の正当性を判断する基準として、スティーヴン・トゥールミンの「トゥールミンモデル」を使用していました。
トゥールミンモデルでは、3つの要素を議論の基本要素としています。
1.主張(Claim):その議論で述べたいこと。結論
2.根拠(Data):なぜそのように主張するのかという理由。実験や観察などで誰でも確認できる事実を用いる。
3.論拠(Warrant):隠れた根拠。主張と根拠を結びつけるもの。議論の中では直接言及されず、暗黙のうちに了解されている事柄。
3つの要素に対して、「被告は息子にピザを注文していたから、計画殺人である」という場面を当てはめると、次のようになります。
主張:被告には、あらかじめ被害者を殺害しようという意志があった(計画殺人だった)。
根拠:被告は息子のために宅配ピザを注文しておいた。
論拠:ピザを注文していたということは、自分の帰りが遅くなることを予測していた。
ところが、同じ根拠を使用しても、下記のように論拠が異なると全く反対の主張にもなるということも知られています。
主張:被告は、被害者との話し合いを早く切り上げて帰宅するつもりだった。
根拠:被告は息子のために宅配ピザを注文しておいた。
論拠:宅配ピザは5歳の子供が一人で食べきれる大きさではなく、被告も一緒に食べるつもりだったと考えるのが妥当である。
きちんとした議論を行うには、根拠を持って主張しあうこと、根拠からどのような論拠で主張を導いているのかを理解することが大切だと思いました。
多様な論拠を理解する
三谷幸喜さんの鋭い視点で「議論ができない日本人らしさ」を巧みに「笑い」にした本作品「12人の優しい日本人」を観て、たった30年で「常識」「暗黙の事柄」は変化していることを感じました。
ものすごいスピードで社会の価値観が変化している現代、議論をする中で、同じ根拠なのに、論拠(=自分の常識、自分にとっての暗黙の事柄)の違いで、他者と主張がぶつかりあうことが、ますます増えていくのではないかと思います。
自分自身が、論拠と根拠を明確に主張していくのは勿論ですが、他者の主張の根拠を理解するために「なんとなく」や「フィーリング」を言語化する手助けしたり、根拠を支える論拠は何かを理解しようとしたりできる人になりたいと思いました。
参考文献
映画.com「12人の優しい日本人」(https://eiga.com/movie/37030/)
「主張を図式化するとは」(https://www.saga-ed.jp/kenkyu/kenkyu_chousa/h19/h19syakai/zusikika/zusikika.html#:~:text=%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%81%AF,%E8%A6%81%E7%B4%A0%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E5%9B%B3%E5%BC%8F%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82)
深谷秀樹「日本人と議論 : 映画『12人の優しい日本人』を題材に」(ライフデザイン学研究 (9), 349-363, 2013, https://ci.nii.ac.jp/naid/120006489137)