深読み:『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』
『レイダース 失われたアーク《聖櫃》』は、スティーブン・スピルバーグが監督した映画作品です。公開されたのは、ポップカルチャーの全盛期とされる、1980年代の始まである1981年のこと。インディ・ジョーンズという考古学者を主人公に繰り広げられる冒険映画で、いわゆる「インディ・ジョーンズ シリーズ」の第1作に当たります。
**********************************
まずはざっとそのあらすじを追ってみると、時はナチス・ドイツの台頭によって世界情勢がきな臭くなっていた1936年。考古学者でトレジャーハンターでもあったインディアナ・ジョーンズ教授(愛称はインディ)は、陸軍諜報部からの依頼で、ナチス・ドイツが発掘に着手した聖櫃(アーク)の争奪戦に身を投じます。
インディは、聖櫃(アーク)の在り処の重要な手がかりであるラーの杖飾りの持ち主である、恩師の娘でかつての恋人マリオン・レイヴンウッドと共にエジプトへ向かいます。エジプトでは友人の発掘王サラーとともに、聖櫃(アーク)が隠されているとされる「魂の井戸」の場所を突き止め、聖櫃も発見しますが、ドイツ側についていたライバルのフランス人考古学者ルネ・ベロックらに現場を押さえられ、聖櫃(アーク)を奪われた上に「魂の井戸」へ閉じ込められてしまいます。
どうにか「魂の井戸」からの脱出に成功したインディらは、聖櫃(アーク)をベルリンに空輸しようとするベロックとドイツ軍の企みを阻止。さらに、聖櫃(アーク)を積んだ敵のトラックを奪い、貨物船でエジプトを脱出することに成功しますが、Uボートでやってきたドイツ軍に再び奪い返されます。クレタ島の秘密基地でも、インディとベロックおよびナチス・ドイツ軍殿争奪戦が繰り広げられましたが、インディは捕らえられ、彼らの目前で聖櫃(アーク)にまつわる儀式が開始されます。
ところが、ベロックが開いた聖櫃(アーク)の中には砂が入っているばかり。と、その直後に精霊が飛び出して、ドイツ兵の間を飛び回ります。インディらは咄嗟に目を閉じて難を免れましたが、ベロックやドイツ兵など、敵方は豹変した精霊や聖櫃(アーク)から飛び出した雷撃で皆殺しになりました。インディたちが目を開けると、もはや人の気配はなく、聖櫃(アーク)だけが残されていました。
その後、インディはワシントンで陸軍諜報部に報告をしますが、彼らは聖櫃(アーク)の重要性を理解しようとはせず、インディにはマリオンと街へ繰り出すことしかできません。そして聖櫃(アーク)が納められた木箱は「安全な場所」、すなわち無数の木箱が並ぶ政府機関の地下倉庫エリア51に運び込まれていくのでした。
**********************************
映画のあらすじは以上ですが、この映画が提示しようとしたのだろうと思われることは2つあり、そのいずれもが、最終盤になって開示されているものと考えられます。
まず一つ目は、インディの態度によって示されます。
彼は勇敢な冒険家であり、ナチス・ドイツを向こうに回して、聖櫃(アーク)を巡る命懸けの争奪戦を繰り広げてきました。この映画のほとんどは、そんなインディの姿を追いかけ、観客をハラハラドキドキとさせてきたのです。
ところがその最後の最後に、インディは、その命懸けで手に入れた聖櫃(アーク)を、その重要性について聞く耳を持たない<祖国>へと引き渡しています。こうしたインディの姿からは、敵国を相手に堂々と渡り合ってきたどんなに命知らずで勇敢な男であっても、自らの属する組織、特に<祖国>に対しては従順なものであると、語り掛けているように感じられます。
そしてもう一つは、インディたちの活躍によって、命懸けでもたらされた聖櫃(アーク)が、木箱に納められて政府機関の地下倉庫エリア51の中を運ばれていくシーンです。聖櫃(アーク)には、その争奪戦に携わったドイツ軍関係者を皆殺しにするだけの、凄まじい力が秘められていました。もちろんインディも、国の関係者たちも、そのことは十分に承知していたことでしょう。
しかしながら、映画の最期のシーンは、その聖櫃(アーク)が、木箱の納められた一つの荷物として、巨大な倉庫へと格納されていく様を淡々と映し出します。しかも今まさに聖櫃(アーク)が運び込まれていこうとしているその空間は、莫大な数の、似たような木箱によって溢れかえっているのです。
このシーンからは、どれだけ希少で貴重なものでも、それを死蔵することに躊躇いと際限がない、そうした国家像が提示されているように思われるのです。
もちろん、この映画の見せ場そのものは、インディたちによって繰り広げられてきた華々しい大冒険活劇の数々であったことに違いありません。ですがこの理解に基づけば、そんな、観客の胸を躍らせてきた見せ場の数々が、実はラストシーンに込められたメッセージを、より深く、強く、最大級の皮肉として照らし上げるための、実に巧妙な演出上の仕掛けに過ぎなかったこともまた、了解されるのです。