暇・人

暇に任せて、「=」と「即ち」を探します。基本的に個人的な見解、というか、ほぼ独断と偏見…

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暇に任せて、「=」と「即ち」を探します。基本的に個人的な見解、というか、ほぼ独断と偏見に基づくものであり、かつ、その企みのほとんどにおいて失敗が見込まれます。悪しからず。

最近の記事

雑録:小説Aについて(1)

核心的なイメージとしてまず初めにあったのは、すべて奪う女神の姿です。 人々の崇め奉る思いや命を養分にして、醜く膨れ上がっていく、少々ダークなイメージです。安易なところで、アマテラスを質の悪い方へ歪めてみた感じでしょうか? ただもちろん、このイメージだけでは話になりません。そこであれこれ思いを巡らす中で、この女神も、最初から歪んだ存在であったわけではないだろうと。そこに至るには、それなりのストーリーがあったはずだろうと、そう思い至りました。 そこで、ストーリーを傍らで見守る

    • 神々と人

      記紀を読んでいて、不思議に思うことがある。国土と神の誕生については執拗なほどに記述があるのに、人の誕生については、明示的なところが見当たらないのです。 そしてまた不思議なことには、でも、人がそこにいることは、前提のように話が進んでいくのです。 黄泉比良坂でのイザナギとイザナミのやりとりでは、人が一日に千人殺されたり、千五百人産ませたりと、少々物騒な話が出てきます。 また、スサノヲの乱暴は人にも被害をもたらしたとするような件も見受けられます。 はてさて。では神々と人間と

      • 作品完成の秘訣は、締め切りにあり

        締め切り―。どんな世界にも、当たり前のように蔓延っている言葉です。これに追われる身の、どれだけ切なく苦しいことか。限られた時間の中で、求められた品質をものするためには、それこそ様々なことを諦めなければならないのです。 ただ、人の常として、締め切りのようなものが控えていないと、いつまでものんべんだらりと先送りを決め込み、何ら成し遂げることが適わない、という次第に陥ることもよくある話。そうして考えると、締め切りというのは、有難いものでもあるのでしょう。 実際、私の知人には、う

        • 私の文章作法

          一言で文章といっても、その作法には色々とあるようです。 その昔、ある作家さんが「すべて決まってから書き始めるので、書き始めてからは早い」といった類のことを記しているのを読んで、ひどく感心したことがあります。すべてを空で書きとどめられるとは、と。 囲碁や将棋のプロ棋士たちは、かなり先の手まで読むことができるようですが、ちょうどそんな感じなのでしょうか? それに比べてこちらはと言えば、ただのアマチュア、ヘボな打ち手、指し手に過ぎないのですから、先行きのことなど、その都度都度

        雑録:小説Aについて(1)

          雑録:小説Xについて(0)

          小説を書こうと、このところ妄想を逞しくしています。しかし現時点では野放図に湧き出す様々なアイデアが入り乱れ、もつれ合っているばかり。これらが一本の筋書きへと収斂するまでには、まだまだかなりの時間を要しそうです。 そこで、ならばいっそのこと、その過程、その彷徨う様をそのまま記してしまおうか? そうしていくうちには、自ずと終着点への道筋も見えてくるのかもしれない…などなどと、またしても安易な思い立ちに寄りかかることにしました。 もし仮に、作品のレベルにまでまとめ上げる試みに失

          雑録:小説Xについて(0)

          一生多事ブレブレ

          「一生一事一貫」。文字通り、一生を懸けて一つのことをやり遂げる、という意味です。 驚くべきことに、世の中にはこれを体現した御仁が少なくないようです。もちろん、その「一事」に辿り着くまでには、多少の右往左往もあったことでしょう。ですが、そこに辿り着いたそれからは、まさに一心不乱。その「一事」を貫き通したという訳です。 それに引き換え、この私。一生を通してあちらをちょこっと齧り、こちらをちょこっと齧り、一つとしてモノにはならず、それでも未だに思い切ることが出来ぬ脇目の振り放題

          一生多事ブレブレ

          思いやられた、この国の行く末【読書録】藤田早苗『武器としての国際人権』(集英社新書)

          このところ、様々な場面で「人権」という言葉が迫ってきているような気がします。そんな訳で手に取ってみたのが本書です。「武器としての」の意味合いも気になったのですが、なるほど、という感じです。 それにつけても、世界の目から見た日本の人権に対する意識が、ここまで遅れていようとは、と、ちょっと心配になりました。言葉の障壁で見過ごされているだけで、その筋の専門家の眼から見れば、ちょっと考えられないレベルにあるようです。 そうした意味では、やっぱり何と言っても島国ニッポン。相変わらず

          思いやられた、この国の行く末【読書録】藤田早苗『武器としての国際人権』(集英社新書)

          <象>に語り掛ける【読書録】ジョナサン・ハイト著、高橋洋・訳『社会はなぜ左と右に分かれるのか』(紀伊國屋書店)

          社会心理学者(道徳心理学)である著者は、デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』の記述を引きながら、理性≒思考は、直観という<象>の<乗り手>に過ぎず、<象>が示す感情を正当化するためだけに働くと言います。 そしてまた、<乗り手>である理性≒思考がその正当化に失敗しようとも、主人である直観<象>は判断を変えはしないとも指摘します。 したがって、相手の行動を変えようと思うなら、<乗り手>である理性≒思考にではなく、その主人である直観≒<象>に語り掛けなければならないのだと言いま

          <象>に語り掛ける【読書録】ジョナサン・ハイト著、高橋洋・訳『社会はなぜ左と右に分かれるのか』(紀伊國屋書店)

          衆合論序説(0)

          衆合論が本当にモノになるかどうかはさて置いて、取りあえずは、現時点で想定している主な分析項目について挙げておくことにします。 ・衆合素:対象とする団体、組織を規定する要素群。例えば、宗教団体であれば経典や教理、政治団体であれば政治信条など ・衆合力:対象とする団体、組織の求心力や糾合力。例えば、専任者の数や、組織化の度合い ・衆合数:対象とする団体、組織のメンバーの数 ・衆合範囲:対象とする団体、組織のメンバーの存在する範囲 ・(衆)活動量:対象とする団体、組織の活動量。例

          衆合論序説(0)

          衆合論宣言

          「衆合」論とは、各種の団体や組織の成立基盤や求心力、その影響力などについて考えるためにこれから構築されることになるであろう、メソッドのことです。 「これから構築されることになるであろう」というのは、まさに文字通りのこと。提唱者がこの私で、まさにこれからその構築を試みようとしている段階に過ぎないからです。 私たちは、各種の団体や組織について述べる際に、それぞれの属するだろうと思われるカテゴリーに応じて考察を試みるのが常です。例えば宗教なら宗教団体として、政治であれば政党や政

          衆合論宣言

          ネッカーの立方体を愉しむ:錯視への誘い

          世の中には、多重安定知覚 (または双安定知覚) なる言葉があるそうです。ネットで拾った説明文をそのまま引っ張って来ても、そちらの方面とご縁のない方々にはさっぱりイメージが得られないことでしょうから、対象を視覚(いわゆる“錯視”)に限って、ざっくりと簡単な説明を試みることにしたいと思います。 それはつまり、ある対象について、ある見方が成り立っていたのに、その対象をずっと観ていると、そのうちに、その対象自体には何の変化も動きも起こっていないはずなのに、これまでとは違った見え方で

          ネッカーの立方体を愉しむ:錯視への誘い

          メタファーと記号接地問題

          言葉に代表される記号と、現実世界とのつながりがどのように形成されるのか? AI時代の到来を迎え、ますます重要度が増してきている問題を、記号接地問題と言うそうです。 『言語の本質-ことばはどう生まれ、進化したか』(中公新書)では、その原初的な段階をオノマトペに求め、それを論証している点で注目されます(https://note.com/hima_gine/n/ne38ac31b97e2 参照)。 ところで最近、この記号接地問題で、やはり抜きにできないのではないかと密かに考えて

          メタファーと記号接地問題

          永遠の構想倒れ:K高校犯罪史

          開校百年超という歴史もあってのことでしょう。全国的に見て、別段飛び抜けた一流校というわけでもなく、あくまでもそれなりの我が母校ですが、戦後の著名な事件に連なる人物たちを、やはりそれなりに世に送り出してもいます。 昨今マスコミを騒がせている事件でも、やはり母校のOBの一人の名が、大きく取り沙汰されています。こうなると、ある種の宿命を負っているようにも錯覚されるくらいです。 というわけで、以前から、機会があれば物してみたいと思い続けてきたのが、表題のタイトルです。 まあ実際

          永遠の構想倒れ:K高校犯罪史

          矮小化された神義論

          全能で善なる神が存在するにも関わらず、世界に悪が存在するのは何故か―神義論、あるいは弁神論が問うているのは、そうしたことです。確かに、極めて切実な問題提起であるに違いありません。 ただその門を潜るためには、クリアしなければならない問題があります。そもそも、善とは何なのでしょう?さらに、悪とは何なのでしょう?しっかりとした足場のない門は、自ずと崩れ去るのみです。 実際問題として、この正面切った問題提起は、なぜか矮小化の憂き目を見ることになりました。善人であっても報われないこ

          矮小化された神義論

          市民と政府の微妙なバランス

          国には、その体裁を保つ上からも、外殻としての「政府」がしっかりと確立されている必要があります。これは言うまでもないことです。 とはいえ、その「政府」の維持が唯一無二の最終目的となっているようでは、お先真っ暗です。というのも、国を発展させる原動力は、その構成要素である「市民」の創意工夫にこそ求められるものだからです。つまり「市民」には、その活動を抑圧されることなく、ある程度自由に動くことのできる余地が確保されている必要があるのです。 それを忘れてしまった国は、結局のところ、

          市民と政府の微妙なバランス

          顕彰と、慰霊・鎮魂の狭間

          とある方の、靖国神社を巡る著作に触れる機会がありました。率直に言うと、少なからず抵抗を覚えずにはいられませんでした。 その源はおそらく、そこに祀られている方々が、「国のために命を捧げる」ことを、さも自らの意志によって、能動的に決意したものとして論じられていたところにあったのでしょう。つまり、著者はその方々を、「顕彰」すべき対象と考えているのです。 もちろん、そうした方々がいらしたことを否定する積もりはありません。ですが圧倒的に多くの方々は、大きな時代の波に押し出されるまま

          顕彰と、慰霊・鎮魂の狭間