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私の祈りの対象

私は、意外と祈る人です。ただ我ながら不思議に思うのですが、自分が一体何に対して祈っているのかは承知していません。

それは可笑しいだろう、という声が聞こえてきそうですが、本当にそうなのですから、致し方がありません。この世知辛い世の中、寄りかかる対象はあってしかるべきだと思っているのですが、ではそれがどこの誰であるべきなのかはないのです。

といって、呼び名のない相手に祈るのも難しいので、便宜的に「主」を借用しています。これは研究の過程で、旧約聖書に親しんできたことが手伝っています。

ただ、これもあくまで仮のことで、私がユダヤ教やキリスト教の皆さんが奉じる神に対して祈っているという感覚はありません。妙な話に聞こえるかもしれませんが、誰とも知れない何者かに、ひたすら(と言うほどでもありませんが)祈っているというわけです。

一体どういう積りなのかと言われてしまえば、返す言葉もないのですが、おそらくはどこかで、私たちのことを見守ってくれている何者かがいないことにはやっていられない、という思いがあるのでしょう。そしてまた、だとすれば、それを自分で決めてかかるのもまた、どうなのだろうというところがあるのです。

もし私の祈りが届いている何者かがいるのなら、それが私の「主」です。ですが私は「主」が何者であるのかを知りません。もし本当に私にとっての「主」がいたのなら、いつの日か、私にそれが開示されることだろうと、呑気と言われればまさにその通りの体で待っているところがあるのです。どこかで、その時が来るのを待っているのです。