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【創作】或る日

 昼前に目が醒めて、最も初めに感じた感触は、僕の左隣でまだ眠りについている彼女の温もりであった。
 秋も深まり、日中の気温も次第に低く成り行く季節の人肌の温もりは、魔力の様なものを持って僕を動けなくさせる。ずっとこうして彼女の隣で横になっていたい。幸福な気持ちで、彼女の横顔を眺める。綺麗な肌、整った鼻筋、長い睫毛、スースーと立てる寝息や、時々モゾモゾと体勢を変える様子など、その全てが愛おしいと思えて、もし、永遠なんてものがすぐ手に入るならば、今欲しいと思った。
 ずっと布団に包まり、彼女の寝顔を見ながら、ぬくぬくと幸せを味わっている訳にもいかないので、名残り惜しみながら、僕は彼女を起こさないようにそーっと布団から抜け出した。
 昨晩は、二人で行きつけの居酒屋に赴き、酒精に浸っていたが、いささか飲み過ぎて、二人とも有頂天になっていた。二軒目のバーから、僕の住む古びたアパートの一室に辿り着くまで、千鳥足でふらつきながら、互いが互いを支えて歩いた。良い夜だった。
 感慨に耽っていると、先程まで感じていた優しい幸福とは裏腹に、体の中に残ったアルコールが現実を突き付けてきて、僕を夢見心地から連れ戻す。
 種々雑多にものの乗った机から、昨日帰宅した後、外套のポケットから放るようにして置いたハイライトとターボライターを手に取って、玄関の扉をなるべく静かに開けて外に出る。もう一日が始まってから、だいぶ経つのであろう街行く人々を眺めながら、玄関前に設置してあるそれ用の椅子に腰掛け、煙りを燻らせる。
 良い朝だ。朝っていうかもう昼だけど。少し前まで流行っていた恋愛ソングの歌詞が頭をよぎった。
 僕は扉を再び開けて中に戻り、シャワーを浴び、歯を磨いてから、家事に従事し始めた。米を研いで、炊飯器にセットした後、溜まっていた洗濯物を全て洗濯機に突っ込んで回す。
 ひと段落したので、お湯を沸かして珈琲を淹れ、二、三年前に友人から貰って、すっかりオンボロになった黒い座椅子に腰掛けて嗜む。本当はコンポで音楽も流したい所であったが、彼女の眠りを妨げたくないので、両耳にワイヤレスイヤホンを装着して、クラムボンの波よせてを流す。

 ウェイバー ウェイバー ウェイバー
 ララ 
 はじけてく はじけてく

 鼓膜を撫でる優しい音色に心が落ち着く。何曲か聴きながら、珈琲を舐めていると、外の洗濯機から洗濯の終わった事を告げるビービーという音が聞こえてきたので、僕は腰を上げた。
 ベランダに出て、燦然と差し込む陽光に目を細めながら、バイト着やお気に入りの古着を干していると、やがて、
「おはよう。」
という彼女の眠たげな、僕の好きな音楽の音色よりも、波音よりも耳心地の良い可憐な声が聞こえてきた。僕も
「おはよう。」
と言って、声の聞こえた方を振り向いて答えた。
 眠たそうに瞼を擦る彼女は、毛繕いをしている猫のように見え、可愛かった。
「朝ご飯どうする?鯵の南蛮漬け冷蔵庫に残ってるやつあるけど。ご飯も炊いてる。」
 僕がそう問いかけると彼女は、
「あー、まだ良いかも。」
と言って、また布団に包まった。彼女もまたついさっきの僕のように、自分の体温で温まった布団から抜け出せないらしい。
 そうなると、僕も彼女の眠りを気遣う必要はないので、自身のスマートフォンからBluetoothを飛ばしてコンポに接続し、音楽を流し始める。
 曲は彼女の大好きなaiko。アルバムはまとめⅠ。
 僕は珈琲をちびちび啜る。彼女は布団の中で寝返りを打つ。僕の部屋を、珈琲の香りと、ゆっくりと穏やかな時間が漂っていた。

 徐に起き上がると、彼女は台所に行って、顔を洗い、歯を磨いた。こちらへ戻ってくると、
「ご飯食べる。」
と言って、布団の上に腰掛けた。
「はーい。」
と答えて僕は腰を上げ、支度を始めた。机の上に置かれたB’zやサカナクションのCD、ガタの来ているパソコンや筆記用具などを退かし、冷蔵庫から、鯵の南蛮漬けが入っている黄色いボールを取り出して、そこに置いた。
「わー、美味しそう!!」
 それを覗き込んだ彼女が無邪気に言う。
 炊飯器の蓋を開けるともわっとした湯気が立ち上った。僕は炊きたての真っ白なご飯をしゃもじで下から上へ掻き混ぜて、二人分を茶碗へよそった。茶碗と箸と取り皿を食卓へ並べると、彼女は
「ありがとう!!」
と言った。
「どういたしまして。」
と答えた僕は両の手のひらを胸の前に合わせた。それを見た彼女も、僕のより小さくて、爪の綺麗に切りそろえられた美しい両の手のひらを胸の前で合わせ、二人で
「いただきます。」
と言って、目の前の馳走に箸を伸ばした。
「すっごく美味しいね。」
「二度揚げしてるから骨ごといけるでしょ。」
「うん、頭が美味しいね、鯵って。」
「お、良く分かってるじゃん。」
 他愛ない会話が交わされた。
 
 僕の部屋の或る日の話。
 



 
 
 

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