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【創作】今際の水面

 死にたいと考える事を少し難しい言葉で希死念慮と言うらしい。
 この言葉を知ってから、僕は自分が常々抱く死にたいという願望に、名前が付いている事にささやかな安堵を覚えた。
 僕だけじゃない。この感情を抱く人々が世の中には多く居る。だからこそ名前が付く。
 それ故に僕は生活を送る中で、大きな自信を持って、死に場所を探し、死に様について考えに耽り、死後の世界を想像する様になった。
 夜空を眺めれば、あの星は誰かの魂だったものかも知れない、名も知らぬ草木を見れば、あれも誰かの生まれ変わりかも知れないと考える。水辺に近付けば、意識がぼぉっとしてきて、そのまま水の中に吸い込まれそうになる。
 とりわけ、水面は僕に死を考えさせる魔力を多く湛えている。そこに映り込んで反射する、街灯の灯りや月の光は、緩慢な流れの中でユラユラと揺れて、疑似餌の様に僕を誘う。
 消波ブロックの最先端に立って、初めであり、終わりの一歩を踏み出す勇気を持てたら、僕はどれだけ幸福な事か。
 いや、今踏み出してしまおう。
 僕は垂直に落下して、足の爪先から入水した。白い満月に照らされた、粉々に割れた鏡の欠片の様な水飛沫の一つ一つが、僕の恍惚とした表情を映して笑っていた。
 僕は沈んで行く。水面が遠くなっていく。閉じていた口を開くと、僕の肺の中にあった空気がボコっという音を立てて、大小の泡となって浮かんで行った。
 息の出来ない苦しみに僕は手足をジタバタさせた。あれ程までに希った死への憧れを覆い尽くす恐怖が薄れゆく意識を支配した。
 死を考える事に酔っていた僕は、まだ生に執着していたのか。涙が出た気がしたが、それは淀んだ色をしている淡水と混ざりあって、存在する事すら許されない。
 意識が飛ぶまでのほんの僅かな時間、雪の様に白く長い尾鰭が僕の視界に入った。
 水中を漂うその姿には見覚えがあった。コメット。幼年時代、まだ矍鑠としていた祖父が好き好んで飼っていた金魚だ。その名の通り、水槽の中で長い鰭をたなびかせ、素早く泳ぐ細身の魚体は彗星の様であった。
 僕の居る、真っ暗な水中の中で動き回るその姿は正しく彗星であり、美しかった。僕は苦しさの中で、その姿に見惚れた。
 そのコメットがゆっくり僕へと近付いて来て、やがて唇に接吻した。優しくて柔らかい感触だ。僕は苦しさに藻掻く事を止めた。もう死んでも良い。
 その瞬間、僕の苦しみは消失し、呼吸が出来るようになった。冷たい空気がある。
 目の前に居たのは君だ。
「貴方の綺麗な寝顔を見てたら、不意に殺したくなったんです。貴方はいつも死にたいって仰ってたから。だから首を絞めてさしあげました。貴方は苦しそうに藻掻いていましたけど、その姿も愛おしかったから、私は貴方に口付けしてあげたんです。そうしたら、貴方は安心したみたいに動かなくなって。本当に死んでしまったと思いました。でも生きてますね。ほら、貴方の瞳には私が映り込んでる。」
 窓から差し込む街灯の、白い灯りにうっすらと照らされた君の微笑む顔は、この世のものでは無い程艶やかで、優しかった。
 そうか、僕は君の為に死にたかったのか。そして君に殺されたかったのか。
「寝ようか」
 僕は君を抱き寄せた。
 君は僕に身を委ね、深い微睡みに落ちていった。

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