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7/10 卒論終わった日記

 映画監督・新海誠、漫画家・西島大介、そして作家・哲学者の東浩紀による2007年の鼎談で、すごく好きなくだりがある。

「自分の自意識とかが作品の中にダダ漏れだけど、あれって恥ずかしくないの?」的なことを聞かれた新海誠が、いやぁ〜実は『彼女と彼女の猫』なんかはぶっちゃけラブレターなんすよねぇだから恥ずかしいのは当然なんですよ!アハハみたいなことを答え、そして東浩紀が、哲学者もそういうことってあるんですか?と聞かれて、以下のように答える。

新海:東さんはどうですか。ご自分の感情が少なからず仕事のモチベーションに直結していたりとかはしないんですか?

東:直結してますよ。ただ、思想とか哲学という関係上、新海さんのようにはなっていませんね。抽象化することで守っているんですよ。

西島:なにをですか?プライベートをですか?

東:僕の場合は、写真を出したくないとか、家族構成の情報を出したくないとか、そういう点でプライバシーを守ろうという意志はあまりないんですが、感情の動きをそのままダイレクトに言葉にするのは嫌なんですね。それをのぞけば、僕の仕事はかなりダイレクトに実存的な悩みとつながってますよ。例えば『存在論的、郵便的』という本がありますが、あれは要は、他人を「単独的」に理解するとはどういうことなのか、つまりは愛するとはどういうことなのかという動機で始まったようなものです。そして実際、あれを書いていた時は僕はずっと一人の女の子と付き合っていて、にもかかわらず相手を愛しているかどうかわからない不安定な状態で悶々としていたわけですね。だからも、自分で読み返すと、そのまんまです。

西島:おお、みんなやっていることなんですね。ステキだ。

(『コンテンツの思想』(東浩紀編、2007:pp57-59)  


 ここで東が言及している『存在論的、郵便的』という本は超小難しい本だ。とても複雑なことが書いてあるし、正直よくわからない哲学の話がずらずらと書いている。しかし、その動機は「付き合っている女の子のことを愛しているのかわからない」というシンプルかつ思春期的な熱さに溢れたものであった!というのが、自分にはかなり刺さった。そして、やっぱり良い文章とか論考みたいものって、いかに堅苦しく小難しかろうと、こういう「自分が生きるか死ぬかという実存の問題(他者への感情についての問題なんかは、まさにそうだろう)」から出発してたりするのかもなぁ、と思ったのだ。

 なぜこんなことを書いているのかといえば、本日無事に卒業論文を提出してきたからだ。「えーっと……あなたは今年度で卒業できないので、提出されても受理できませんね……」と言われてしまい己の留年を知った前回とは違い、無事に受理してもらえた。というわけで、今回は卒論について書いておこうと思う。このnoteは毎度毎度、タイトルの頭に日付をつけておきながらまったくその日起きたこと等を書かないのが恒例だが、今回は珍しく、日記然とした内容になる。

 他の人が、どうやって卒論の題材を選んでいるのかはわからない。授業を受ける中で興味のあった題材を膨らませて書くのか、ゼミで勧められたテーマを選ぶのか、はたまた4年間かけて研究してきたものの集大成としての卒業論文か。理想的なのは最後かもしれない。しかし、自分はまったくアカデミックな取り組みをしてきたわけでもないし、そもそもコツコツ実直に論証していくような思考も、そのような文章も身につけられずに大学時代を過ごしてしまった。しかし、そんな自分も哲学科の学生として哲学の卒論を書いて提出しなくてはいけない。さぁどうしよう。自分が哲学についてわかっていることといえば、唯一「難しいことが語られている」ということだけだ。哲学についてこれしかわからないのに、哲学の論文が書けるだろうか?自分は興味のある哲学者もいなければ、切実に惹かれる哲学上の問題もありはしないのに。が、逆にいえば「難しいことが語られている」ことだけはわかっているのだ。それなら、そこから出発するしかないだろう。なぜ哲学は難しいことばかり語るのか?そして自分はなぜ哲学の語りを難しいと感じて敬遠するのか?哲学は、なんらかの理由で難しく語られなければならないのだろうか?……そういった問いをまず立ててみた。もちろん、卒論のテーマをこれにしたというわけではない。研究者肌でもなく、勉強せずにサークルとネットばかりやっていた成績の悪い自分が、卒論を書くためには助走が必要だったのだ。

「哲学の語りはなぜ難しいのか?」という問いにはすなわち、「哲学の本って難しくて読めない」という問題が含まれる。実感としてもよくわかる。哲学の本は難しくて何が書いてあるのかわからない。文が読解できないばかりか、そもそも使われている言葉の意味がわからない。ようやくわかったとしても、どうしてそんな考えになるのかわからない。理解はできるが共感不能ということだ。この理由は単純で、私たちが普段慣れ親しみ、使いこなしている文体・言葉・考え方とかけ離れているからである。娯楽小説を創造してほしい。私たちがあれを娯楽として読むことができるのは、そこに使われている文体が「私たちが普段使っているものと同じだが、すごく上手」だったり、「私たちが普段から考えていることではないけど、言われてみれば確かにと思える」考え方が主に登場しているからだ。反対に、私たちが普段全く親しんでいないような文体や、私たちが当たり前のものとして信じている価値観を真っ向から攻撃するような考え方が登場するような小説は、娯楽のためのものとして流通することが難しいのではないだろうか。ひとことでまとめてしまえば、それらは「既知の範疇」で展開されるものなのである。

 もっといえば、それらは今の社会で支配的な言葉や価値観によって書かれているといえる。私たちの多くはそれらを受容しながら生きており、その言葉や価値観で生きていく上での選択を行ったり、自分をめぐるあれこれについて考えたりする。だが、時にはそれで上手くいかないことがある。

 人はときどき、私のこれまで信じてきた価値観が、どうやら私には合っていないらしいとモヤモヤすることがある。あるいは、私の中に今まさにうごめいているこのモヤモヤとした思いや思考は、私の知っているどんな言葉でも表すことができない、しっくりこないと感じてしまう。それならば、未知の価値観や言葉を探す必要がある。それは私をもっと適切に語り、私が私のことを理解して生きるために必要な作業だ。繰り返すが、それは私が既に知っている言葉や価値観の中から探すのでは見つからない。そこから少し出なくてはならないのだ。私の中に存在すると気づいた正体不明のモヤモヤにはっきりとした輪郭を与えるべく、ちょっとした試行錯誤が必要だ。突如私に去来した未知は、既知の言葉で語り得ない。

 問いに戻ろう。「哲学の言葉はなぜ難しいのか」。それはおそらく、哲学や思想、文学と呼ばれる諸々が、先のようなモヤモヤの正体を見極める助けを役割の一つとして担っているからではないのか。私たちが普段使いし、慣れ親しんでいる言葉や考え方では語り得ないような何かに形を与えるべく要請される、私たちの既知の外にある価値観や言葉。それらは分かりづらく、理解することが難しい──それも当然だ。わかりやすく、簡単に理解できる価値観では手に負えないなにかを、それでも語ろうとしている未知の言葉なのだから。

 こうして自分は「哲学の言葉はなぜ難しいのか」に一応自分なりのまとまった結論(なぜかっていうと、普段馴染みのある言葉や価値観では説明不可能なものを説明しようとするためもの(でもある)から)を固め、いざ卒論に取り掛かることになった。先の結論をよりシンプルに、より卒論に繋げやすいような形で書くとこういうことになる。

「哲学(や思想、文学など)は、既存の価値観で生きていくのは自分に合わない、既存の言葉の中には自分や自分の在り方を表す言葉がない、と感じる存在に新たな価値観や言葉を提案するのが、役割の一つなのだと思う」

 であれば。自分の書く卒論もまた「新たな価値観や言葉を提案する」ものになれば、哲学の卒論といえるだろう。しかし、誰のために?

 たとえばフェミニズムなんかでは「既存の価値観で生きていくのは自分に合わない、既存の言葉の中には自分や自分の在り方を表す言葉がない、と感じる存在」に「新たな価値観や言葉を提案する」ことが試みられている。なら、自分もフェミニズムを?そうではない、と思った。それは他の誰かがやるだろうし、わざわざ自分がやることではない。

 もっと何か、自分にとって切実に立てられるような問いがあるはずだ。……という感じで、自分は卒論のための「助走」を、もう少し走ってみることにした。

続く


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