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第五章 それから

「おはようございます。」

休み明けの朝、瞼の重い目を擦り、あくびを堪えながら、池田はタイムカードを打刻した。隣のデスクに目を向けるが、同期の河野の姿は見当たらない。一ヶ月前からずっとだ。

一ヶ月前の連休明けの朝、池田は同じように隣のデスクに目を向けた。河野は、自分と同じく、はっきり言ってあまり仕事に熱心な方ではないが、毎朝、会社の誰よりも早く出勤していた。けれど、その日の河野の席は、空っぽだった。会社で利用しているチャットツールに、彼からのメッセージはない。また休み中に映画観まくって寝落ちでもしたんだろう。それとも二日酔いだろうか。

その時は深く考えず、ただこのまま待っていれば、いずれ来るだろうと、休み中に届いたメールの確認に意識を向けていた。だが、始業時間になっても、奴は来なかった。それどころか、昼休憩になっても、昼休憩が終わっても、終業時間になっても、あいつは来なかった。河野が無断欠席なんて珍しい。社内では皆口々にそう話していた。俺もそう思う。

次の日になっても、河野は姿を見せなかった。会社から携帯電話に電話をかけても、誰も出ない。家に訪ねて行っても、インターホンを鳴らしても、誰も出てこない。実家に問い合わせても、帰っていないという。不審に思った両親が、彼の部屋を訪ねたらしいが、部屋にも居なかったそうだ。携帯電話も財布も通帳も印鑑も、全て部屋に置いたまま、食事や飲酒をした痕跡もそのままに、彼の姿だけが忽然と消えていたと聞いた。

それからまもなく、河野の両親は、ついに警察に捜索願を届けた。ニュースでも、彼の行方不明が報道されている。河野が失踪して一ヶ月。懸命の捜索にも関わらず、彼はいまだに行方不明だ。 

思えば、奴の様子がおかしかったのは、数週間くらい前からだった。河野のお気に入りの映画のテレビ放映があった週末の休み明けから、河野はたびたび上の空になることが増えた。それに、何やらブツブツと独り言を呟いていることもあった。俺がヒーローだの、誰々を助けるだの、世界を救うだの、そういったことだ。どうせ、また好きな映画に感化されて、変なことを口走っているんだろうと思っていた。これまでは、ボーッとしたり、ぼやいたりすることはあっても、すぐにいつもの河野に戻っていたからだ。

そんな河野との会話で、特に気になることがあった。「最近、眠るのが楽しみ」という話だ。自分の好きな映画に入ることができるんだという。その夢で、彼は映画の世界を好きなように変えていたらしい。お前もやってみろと言われて、言われる通りに試したことはあるが、もちろん。そんな夢のような夢は見られなかった。

河野が消える直前の退勤時も、奴は映画の夢の話をした。連休前だったので、この連休はしっかり眠って、自分の好きなヒロインを助けるんだと言っていた。その時は、また何か言っているなと笑って話を聞いていたが、それを最後に彼は姿を消した。

こんなこと馬鹿馬鹿しくて、会社の人間や、河野の両親、警察に対しては、一言も証言していない。捜索のなんの参考にもならないに決まっている。「河野は、眠るのが楽しいと言っていました。最近は映画の夢を見て、そこで好きな映画の内容を改変しているらしいんです。」だなんて。

でも、奴の言っていたことがもし本当だとしたら、河野は、きっと今も映画の世界を放浪しているのだろう。

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