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第一章 日常

「お先に失礼いたします。お疲れさまです!」
「お疲れさまです・・・」

定時の十八時三十分から、一時間の残業を終え、河野はようやくオフィスを出た。ドアノブを力強く引き、その反動で、勢いよく身体をドアの外に押し出した。向かいのレンタル着物屋のドアの向こうは、真っ暗だった。この店は、うちの会社と違って、もっと早い時間に全員が退社しているのだろう。ふうと息を吐き出し、河野は地上に降り立つ階段を駆け下りた。

オフィスには、まだ同僚の池田が死んだ目をして、パソコンのキーをせわしなく叩いており、他にも数人の後輩が残っていた。世間では花の金曜日と呼ばれているが、とんでもない。休み前にその週のタスクを終わらせなければならない者にとっては、終業後からが本当の地獄だ。

本来なら、自分も残って、やるべき仕事を終わらせるべきなのかもしれない。河野は、少し罪悪感を感じつつも、まだ頭の中に残る複数の死んだ目を、なんとか頭から振り払おうとした。残った仕事は、来週の自分に託してしまえばいい。とにかく自分は解放されたのだ。会社を出た後の時間は、自分の時間だ。仕事のことは、また休み明けの朝に考えればいい話だ。誰に言い訳するでもなく、そう自分を正当化しながら、小雨が降り始めた大通り沿いの道を、駅に向かって小走りで進んだ。

ガチャリという重たい音を立てて、鍵を開け、愛しい我が家に足を踏み入れる。手探りで玄関の電気をつけ、まずは洗面所に向かう。このご時世だ、手洗い・うがいは欠かせない。最寄り駅近くのコンビニで調達した缶ビールや弁当を一旦冷蔵庫に入れ、つまみが残されたビニール袋をテーブルに置いた。

河野は、この1DKの部屋で一人暮らしをしている。帰宅する自分を温かい手料理とともに迎えてくれるような妻や彼女はいない。三十歳目前にして、周りの友人からの結婚の報告が増えてきたが、特に気にしていない。実家からのプレッシャーがないわけではないが、いないものはしょうがない。結婚願望も特にない。自分が家庭を持つなんてことが、全く想像つかない。

そんなことを考えながら、ふと部屋の時計を見ると、お楽しみの時間まであと四十五分もあった。河野にとっての花の金曜日の楽しみは、毎週午後九時から放送されるロードショーでの映画鑑賞だ。休日や平日の仕事終わりなど、普段から映画を観ることは多いが、このロードショーでの映画鑑賞は格別だ。

今日の映画は、お気に入りのヒーロー映画だ。アメリカのニューヨークを舞台に、ヒーロー集団が、宇宙からやってきた異星人達から世界を救うために戦うシリーズの第一作目である。河野はこのシリーズの大ファンで、この映画はもう何度も観ている。しかし、世界で愛されている作品なだけに、何度観ても飽きない。また、今日のようなロードショーでの放映時は、SNSを開いて、映画ファン同士で実況をしながら観るのが、また楽しいのだ。

「さーて、シャワーでも浴びるか。」

誰に言うでもなく、普段は言わない独り言をつぶやき、河野は部屋着を小脇に抱え、鼻歌交じりに風呂場へ急いだ。

お楽しみの時間まで、あと五分。ソファに座った河野の前には、キンキンに冷えたビール、そしてコンビニで買った唐揚げ弁当、つまみのするめがテーブルに並んでいる。そして眼前には、奮発して買った大型テレビ。今から始まるロードショーの予告映像が流れている。まるで映画館にでも来たかのように、河野の胸は期待に高鳴っていた。

さて、いよいよロードショーが始まった。SNSで実況をしながらの鑑賞のために、スマートフォンを片手に、河野は前のめりにテレビに向かい、映画の世界に没入していった。

ロードショーが始まる前とは違い、映画を観ている最中は、飛ぶように時間が過ぎていった。そして、気が付けば、映画は終わっていた。手元のSNSも大盛りだった。映画の放映が終わった今も、興奮冷めやらぬシリーズのファン達が、今回のロードショーで初めてシリーズに触れた新規ファンの獲得のために、布教活動を行なっていた。

ヒーロー映画は面白い。自分を犠牲に、顔も知らない世界の人々を救おうとするヒーローの姿勢に、河野は憧れを持っていた。小さな島国で、一会社員として細々と働く自分とは大違いだ。

満たされた気持ちと自分の小ささを嘆く気持ちが複雑に入り交じるなか、連日の残業とストレスによる不眠のせいか、早くも河野は眠りに落ちていた。できることなら、映画の世界に、ヒーローのいる世界に行ってみたいという叶わぬ願いを抱きながら。



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